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『三流シェフ』から学ぶ「夢」を叶えるためにやるべき一番大事なこと

コウカワシン

こんにちはコウカワシンです。

今回は、三國清三(みくに・きよみ)さんの著書『三流シェフ』から学ばせていただきます。

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目次

『三流シェフ』は、どんな本?

『三流シェフ』は、ズバリ!「人生の道しるべが見つけられる本」です。

本書はこのような本

「料理界のカリスマ」と呼ばれている三國清三(みくに・きよみ)シェフ。

本書で三國シェフは、2022年の暮れに、37年続いた「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉じることを語られました。

なんだか、人生を閉じるかのような始まりですが、それがまったく違うのです。

70歳を迎えた今、「新たな夢を実現する」と宣言されたのです。

そんなパワフルな三國シェフは、現在の自分があるのは、生まれ育った北海道・増毛(ましけ)での極貧生活、料理人になりたくて下積み時代や留学時、一人前になってからも一貫して続けた「鍋磨き」があるからだといいます。

そんな三國シェフが本書に「何者かになろうとして、懸命にもがく人たち」に向けて伝えたい大事なことを込めました。

「社会に出て右も左もわからない新社会人」「社会に出て数年経つけど自分が何者かがわからない20代」「10年経っても成果が見えてこない30代」「もう先がないと感じる40代」「あと何年働けるかなと悩む50代以上」の人たちに読んでいただきたい一冊です。

本書がおすすめな人

『三流シェフ』がおすすめな人

  • 自分が何者になりたいかわからない人
  • 目標はあるけど成果が出ず先が見えない人
  • これまで自分が何を残してきたかに悩んでいる人
  • これから先、自分に何ができるかが想像できない人

『三流シェフ』の要点は?

本書は、「料理界のカリスマ・三國シェフ、感涙の自伝」と銘打たれています。

そして本書の帯には、

雑用こそ人生の突破口だ。
誰より苦労しても、その苦労を見ている人は1%にも満たない。
それでも“世界のミクニ”は必死に鍋を磨き続けた。

とあります。

「何者かになりたい」と誰もが思うものですが、現実は厳しいものです。

懸命に頑張っても、あるときプッツンと緊張が切れてしまうことがあるでしょう。そんなとき、どのように軌道修正すればいいのでしょうか?

そういったことを三國シェフの足跡からヒントを得られるかもしれません。

コウカワシン

それでは本書から、「三國シェフのおいたち」「三國シェフの経歴」「三國シェフが大事にしていたこと」「三國シェフのこれから」といったことを取り上げてみたいと思います。

この記事から、「この本いいなあ~」と感じていただけたら、ぜひ本書を手に取って読んでみることをおすすめします。

三國シェフのおいたち

父親の姿を追うようについて回った幼少期

三國清三シェフ(以下著者と表記)は、北海道の日本海側に面する増毛(ましけ)という漁師町に生まれました。

上に兄2人姉2人、下に弟が2人という7人兄弟で育ちました。

父親は漁師で、著者は幼いころから父親の行くところ(漁や酒席)によく連れまわされていたそうです。

父親は働き者で、量の腕は確かだし、田や畑仕事を主にやっている母親の手に余る力仕事を黙々とこなす人だったそうです。

著者はそんな父親の仕事をよく手伝い、小学校の高学年になると魚市場に売りに行ったりもしていたそうです。

そんな著者と料理との接点は、そのようなときに訪れました。

時化(しけ)でアワビが一つか二つしか獲れなかったことがあり、このような場合、数が少なすぎて競りにかけられなかったそうです。

大きなアワビだから、何とか売りさばきたい著者は、まわりの大人から、料理屋に売りに行くことをすすめられます。

料理屋の勝手口から覗くとそこには厨房があり、あったかい湯気と、えもいわれぬうまそうな匂いが溢れ出して、別世界に見えたといいます。

そしてそこで、きびきび立ち働く料理人たちにもカッコよさを感じたといいます。

そのとき料理人になりたいと思ったわけではないにしても、料理人という職業を意識したのは間違いないなく、料理人たちの颯爽とした姿が目に映ったのです。

父親がニシンの闇取引で借金をし、借金のカタに家屋敷まで奪われた

著者の家庭は貧しく、中学校を卒業し、他所の街で住み込みで働いていた姉たちは、働いて得た収入をそっくり家に送っていたといいます。

そんな姉たちはさらに、「住み込みで、ご飯は食べさせてもらえたけど、給料の前借をするのだけは恥ずかしかった」そうです。

どうしてこのような事態になったかというと、父親がニシンを正規のルートではなく、闇で大量に何度か売り買いした挙句に、大金をだまし取られたからです。

ニシンは、その地域の人たちにとっては、特別な魚で、ニシンの莫大な水揚げが富をもたらし、増毛の経済を潤し、網元たちの立派な屋敷はニシン御殿と呼ばれ、海岸沿いに点在していたといいます。

しかし、そのニシンの群れが昭和20年代を境にやって来なくなります。

ニシン景気が終わろうとしていたのです。

ニシンの水揚げが博打のように不安定になっていたから、網元たちは権利を売ったりしました。

父親は網元の生まれで、今でいえば漁業経営者でした。大勢の網子を使ってニシン漁をしていた家でしたが、不安定なニシンの水揚げが影響してか、闇取引に手を出してしまったのです。

結果、ニシンの闇取引のために借金をし、借金のカタに家屋敷まで奪われて、朱文別(しゅもんべつ)の借家に身を寄せました。著者はこの家で生まれたのです。

料理人になることを目覚めさせた「黒いハンバーグ」

中学を出た著者は、高校には行かず札幌の佐藤米穀店で住み込みで働きました。それと同時に夜間の調理専修学校にも通いました。

もちろんその学校に通う人は、社会人がほとんどで、調理師免状取得が目的でしたが、高校に行かせてもらえなかった著者はとにかく学校に行けるのがうれしかったといいます。

佐藤米穀店での生活は楽しく、とくに米穀店のお嬢さんが作ってくれる夕食が楽しみだったといいます。

そのお嬢さんは栄養士の資格を持っていて、食卓にはいつもハイカラな料理が並んでいたそうです。

いちばんの衝撃は「ハンバーグ」。ドミグラスソースがかかっていたため黒く見えたそのハンバーグを食べ、「旨め、旨め」を連発すると、「グランドホテルのハンバーグはこんなものじゃないよ」と、お嬢さんが言いました。

そこで、グランドホテルで出されるハンバーグに興味を持ち、自分がなんとなく通っていた調理専修学校に行く目的をはっきりさせ、「グランドホテルのコックになって、日本一のハンバーグを作る」という目標を持ったのです。

三國シェフの経歴

1969年

中学校卒業後、札幌の佐藤米穀店に住み込みで働きながら、夜間の調理師専門学校に通います。

16歳の時、まかないで出されたハンバーグに感動し、「ハンバーグが作れる料理人になる」と決意し、札幌グランドホテルのテーブルマナー講習に参加し、そこで料理課長の青木保憲氏の許しを得て、料理人の修業を開始しました。

1971年

札幌グランドホテル総料理長・斉藤慶一氏に紹介状を書いてもらい、帝国ホテルへ移ります。

1973年

20歳のとき、帝国ホテル・村上信夫氏の推薦で、スイス・ジュネーブの日本大使館の料理長に就任します。大使館勤務のかたわら、フランス料理の名店「ジラルデ」のフレディ・ジラルデ氏、トロワグロ兄弟、アラン・シャペル氏に師事します。

1978年

大使館を退勤するも、引き続きフレディ・ジラルデ氏の元で修業を続けます。

1980年

三ツ星レストランの「トロワグロ」、「オーベルジュ・ドゥ・リィル」、「ロアジス」、「アラン・シャペル」にて修行を重ねます。

1982年

日本に帰国。市ヶ谷の「ビストロ‣サカナザ」でシェフとして迎えられます。

1985年

東京-四ツ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業し、オーナーシェフとなります。

1989年

ニューヨークのレストラン「ザ・キルテッド・ジラフ」、香港のホテル「ペニンシュラ・ホンコン」、

1990年

タイの「ザ・オリエンタル・バンコク」ホテルにて“ミクニフェスティバル”を開催します。

1991年

「ルレ・エ・シャトー協会」、「トラディション・エ・カリテ」に加盟します。同年、モナコの「オテル・ドゥ・パリ」にてアラン・デュカス氏とともに世界7カ国のシェフの一人としてイベントに参加します。

タイの「ザ・オリエンタル・バンコク」ホテルにて2度目の“ミクニフェスティバル”開催します。

1992年

タイの「ザ・オリエンタル・バンコク」ホテルにて3度目の“ミクニフェスティバル”開催します。

シンガポールの「FOOD&HOTEL ASIA’92」の「世界料理コンクール」において、2度目のアジア地区代表審査員を務めます。

アフリカ・ケニアの「ムパタロッジ」にてプロモーションを開催します。

フランス「オテル・ドゥ・クリヨン」にて“ミクニフェスティバル”を開催します。

1993年

フランス・リヨンにて「BOCUSE D’OR 料理コンクール」の日本代表審査員長を務めます。ロンドンのホテル「ザ・バークレー」で“ミクニフェスティバル”を開催します。エリザベス女王も来訪されました。

1994年

フランス・ボルドーワインの普及貢献が認められ、メドック・グラーヴ地区ボンタン騎士団の勲章を受勲します。

札幌グランドホテル開業60周年記念で「ミッシェル・トロワグロと三國清三のメモリアル・ガラ・ディナー」を饗宴する。「東京ベイヒルトン」ホテルにて“世界の子どもにワクチンを”のチャリティーミクニフェスティバルを開催します。

1995年

フランスサンテミリオンにて“プルミエ・グランクリュ・クラセ”VIN EXPO’95大晩餐会のシェフを務めます。

東京誠心調理師専門学校・創立25周年記念特別講習会を行います。

「東京ベイヒルトン」ホテルにて2回目の“世界の子どもにワクチンを”のチャリティーミクニフェスティバルを開催します。

中国の「上海ヒルトン」ホテルにて“世界の子どもにワクチンを”のワールド・チャリティーミクニフェスティバルを開催します。

糸菊学園・名古屋調理師専門学校・創立46周年記念特別講演会を行います。

1996年

タイの「ザ・オリエンタル・バンコク」開業120周年記念として4度目の“ミクニフェスティバル”を開催します。

アジア12ヶ国最優秀シェフ12名を決定するコンテスト”ボンラック・グレート・シェフズ・オブ・アジア賞”を日本代表の最優秀シェフとして受賞されます。

シンガポールの「ラッフルズホテル」にて“ミクニフェスティバル”を開催します。

1997年

台湾の「ライライシェラトンホテル」にて“ミクニフェスティバル”を開催します。

北海道・堀知事より北海道食大使に任命されます。

1998年

ルレ・エ・シャトー協会の「世界のトップシェフ60人の一人」に選ばれ、ロサンゼルスにて饗宴します。

1999年

沖縄・米国海軍基地にて外国人シェフとして初めてボランティアフェアを実施します。

フランス・ボジョレーにてルレ・エ・シャトー世界5大陸トップ・シェフ5人の一人に選ばれます。

「サンティ・サンタマリア」(ミシュラン3ツ星:スペイン)、「パトリック・オコンネル」(USA2ツ星:ワシントン)、「トーマス・ケラー」(USA2ツ星:ロサンゼルス)、「Luisa VALLAZA」(ミシュラン3ツ星:イタリア)、「ナディア・サンティーニ」(ミシュラン3ツ星:イタリア)、「三國清三」(日本)。

フランスの高級レストランの料理人を中心とする組合「Chambre Syndicate de la Haute Cuisine Francaise」(フランス高級料理組合)に日本人として初めて加入します。

日本フランス料理技術組合(フランスと日本の組合が相互に協力し、行政との交渉や広報活動、料理人の育成や子どもの味覚教育等に取り組む組織)を発足させます。

2000年

沖縄・米国基地海兵隊より、1999年3月のボランティアフェアの貢献に対し感謝状を受けます。

九州・沖縄サミット福岡蔵相会合の総料理長を務めます。

2001年

東京駅「東京食堂 Central Mikuni’s」をプロデュースします。

スイス・サンモリッツ世界最高リゾートホテルにてフェアを実施します。

フランス・リヨンにて“BOCUSE D’OR 料理コンクール”の審査員日本代表となります。

タイの「ジ・オリエンタル・バンコク」開業125周年記念として5度目の“ミクニフェスティバル”を開催します。

「ニューサンノーホテル」(東京)米軍センターにて米国海軍と共にエスコフィエディナーフェアを開催します。

4,900ドルをユニセフへ寄付します。

JR北海道「三國シェフプロデュース「ミクニBOX」(フォアグラどんぶり弁当)」が、発売されます。

2002年

JR京葉線・海浜幕張駅「アズ・カフェ ミクニ 海浜幕張」をプロデュースします。

イタリアで世界料理コンクール開催します。

韓国とのサッカーワールドカップ共同開催を記念して、両国の交流グルメフェアを開催します。

モスクワにてピエール・ガニエ氏(パリ三つ星シェフ)と食のイベント開催します。

イタリア・トリノにてその年の世界最高のシェフとしてイタリアスローフード教会主催の晩餐会を務めます。

“メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン”10周年記念チャリティ・パーティにてディナーメニューの監修します。

日本フランス料理技術組合の子供への食育活動の功績が認められ、2002年度食品産業技術功労賞「特別賞」を受賞します。

2003年

東京・汐留に旧国鉄開業当時の駅舎を再現した「旧新橋停車場」内の「グラン・カフェ 新橋ミクニ」をプロデュース、札幌駅南口に「ミクニサッポロ」開業します。

北海道スローフード協会・支部役員となります。

フランス共和国農事功労章「シュヴァリエ」を受勲します。

フランスチーズ鑑評騎士の会日本支部シュヴァリエ会員に選出されます。

2004年

ギリシャ・シェフ協会、認定名誉会員に選出されます。

政府の「立ち上がる農山漁村」有識者会議の一員に選出されます。

「ニューズウィーク日本版」2004年10月20日号「世界が尊敬する日本人100 Japanese」の一人に選出されます。

「オテル・ドゥ・ミクニ」が、食品衛生優良施設として厚生労働大臣表彰を受賞します。

内閣総理大臣より「知的財産戦略本部コンテンツ専門調査会」の委員に任命されます。

社団法人北海道ウタリ協会より「北海道白老アイヌ食文化大使」の称号を授かります。

2005年

農林水産省、経済産業省主催「食の教育推進協議会」に出席。文部科学省「新しい日本の創造を考える研究会」の講師を務めます。

社団法人 全日本司厨士協会 理事に就任。料理専門学校「Culinary Institute of America」にて、“Great Chefs Series” の講師として講演および料理講習の実施します。

文部科学省初等中等教育過程課「家庭、技術・家庭、情報専門部会」委員に任命されます。

2006年

第一回 ミクニ スプリング フェスティバル開催します。

2007年

香川県高松市の高松丸亀町商店街再開発ビルに姉妹店「ミクニタカマツ」オープンし、年数回定期的に著者本人が来店し「ミクニフェア」を開催しています。

厚生労働省より卓越した技能者として「現代の名工」として表彰されます。

2008年

著者自らが監修したレストラン「オーベルジュましけ」が5月1日にオープンします。

2010年

フランス農事功労章オフィシェ章を受勲[されます。

香川県高松市に2店舗目となる「パティスリーミクニ」オープンします。

2013年

11月7日、フランスのトゥール大学より「美食学」の名誉博士号を贈られます。

2015年

フランス共和国レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章します。

2020年

YouTubeチャンネル「オテル・ドゥ・ミクニ」を開設します。

著書『JAPONISÉE』で世界唯一の料理本に対する賞「グルマン世界料理本大賞2020」を受賞します。

2022年

著書『スーパーの食材でフランス家庭料理をつくる 三國シェフのベスト・レシピ136 永久保存版』が「第9回料理レシピ本大賞in Japan」のプロの選んだレシピ賞を受賞します。

12月28日、37年間営業した「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店しました。

三國シェフが大事にしていたこと

いつも人生の基点になった「鍋磨き」

著者は、中卒だったことから、就職面でたいへんな苦労をします。

一番最初に門をたたいた札幌グランドホテルでは、就職試験を受けるには高卒以上の資格が必要だったことから、社員ではなく、社員食堂の飯炊きとして雇われることになりました。

グランドホテル内で働けることと、社員食堂ではかわいがられたため、うれしい毎日を過ごしますが、それだけでは物足りなくなり、グランドホテルの厨房で、汚れた食器や鍋などの洗い物を買って出るようになりました。

厨房で働く先輩たちは大喜びです。

社員食堂の飯炊きと厨房の洗い物をこなす毎日を送っていたところ、正社員として厨房で働けることになりました。

このようなことは今後も続きます。札幌グランドホテルから東京の帝国ホテルに移ったときも、正式採用ではなく、パートタイムでの洗い場係でした。

洗い場係を経験して、正式採用になる予定でしたが、その時期がもうすぐ来ようとしていたときに、帝国ホテルが不景気などの理由で、パートタイムからの繰り上げ採用を止めてしまいました。

著者はショックを隠せませんでしたが、気を取り直し、帝国ホテル内にある18の料理店すべての洗い物をやりました。そうやって帝国ホテルに自分なりの爪痕を残し、花道を飾ろうとしていたのです。

すると、村上信夫(むらかみ・のぶお)総料理長からある提案をされます。それは、「スイス・ジュネーブにある日本大使館に赴任する小木曽本雄(おぎそ・もとお)大使の専属料理人に推薦した」というものでした。

まともに料理を作ったことのない自分に務まるかわかりませんでしたが、著者は引き受けたのです。

これまで、洗い場のほか、厨房で使う器具や食材を運ぶという仕事以外に、やったことといえば、村上シェフがNHK教育テレビの「きょうの料理」に講師として出演しているときに器具出しや食材用意の手伝いをしたくらいだったのです。

くわしいことはこの記事では省きますが、村上シェフは、著者の力量を見抜いていたんだと思います。

まともな料理人人生を歩み出したのは、このジュネーブ時代からだったといえるでしょう。

とにかく、何も知らないことばかりだったので、近くのフランス料理店へ研修に行き、料理を完全にコピーすることから始めました。

著者の熱心さから、晩さん会などの料理を無難にこなしていきましたが、あるとき「自分には師匠がいない」ということに気づきます。

そこで思い出すのが、村上シェフからはなむけの言葉として贈られたこの言葉です。

「十年修業しなさい。そして働いて得た収入は自己投資しなさい。美術館に行き、音楽を聴き、なによりもいいレストランで食事をしなさい。辛抱して勉強しなさい。十年後には君たちの時代が来ます」

そこで、小木曽大使がニューヨークへ1カ月ほど出張する期間を利用して、新進気鋭のシェフ、フレディ・ジラルデの厨房で働こうと訪れたのです。

しかし、そこでも簡単に働かせてはもらえません。

そこで、著者は汚れた鍋が重なっていた洗い場で、洗い物を始めたのです。一心不乱に鍋を洗う著者を見て、ジラルデ氏は「お前の好きにしろ」と夏の間働くことを許したのです。

1カ月が過ぎ、大使が戻られた後も週に1度の休みを利用して、ジラルデ氏の店に通います。大使料理人の任期が過ぎると、いったん日本に戻ったものの、またヨーロッパに渡りジラルデ氏の元で働きました。

ずいぶんと気に入られたものですが、ジラルデ氏の料理スタイルを吸収する資質意外に、著者の「鍋洗い」の道を切り開いてきたと切り開いてきたと感じます。

自己投資を怠らない

ジュネーブに旅立つときに村上シェフに「自己投資をするように」という言葉をもらう前から、著者は自己投資を怠らない姿勢を貫いてきました。

札幌グランドホテルで飯炊きをしていたころもみんなが嫌がる鍋洗いをし、正式採用になったら寮には帰らず真夜中の厨房でフライパンを振る練習をしたり、鶏のさばき方を納入業者の精肉工場に出向き、そこで働くおばさんたちから習ったりしました。

それは後々になって血となり肉になっていきました。

帝国ホテルでは、花開くことはありませんでしたが、ヨーロッパに行ってからも、魚のさばき方は当地の日本料理店で習い、ミシュラン三つ星の「トロワグロ」、「オーベルジュ・ドゥ・リィル」、「ロアジス」、「アラン・シャペル」にて修行を重ねました。

それぞれのシェフの料理スタイルを吸収し、ついに自らのスタイル“ジャポニゼ”を確立していったのです。

日本人として、フランス料理を作る

師匠の一人であるアラン・シャペルにあるとき「セ・パ・ラフィネ」(洗練されていない)という言葉をかけられ、大いに悩まれたときがありました。

「洗練されていないから作り直せ」とも「ここをこうしろ」という指示もなく、料理は客席に運ばれたので、不出来な料理ではなかったということですが、その日から考え続けたといいます。

一つの答えとして出てきたのが、「自分はフランス人ではない」という自分の出自のアイデンティティでした。つまり自分が作っているのは「日本人が作るフランス料理で、フランス人の好みとはちょっと違う」ということに気づいたのです。

この気づきが後々に確立される“ジャポニゼ”に結びついていくのですが、名だたる師匠たちの料理に似せて作っていても、それは人真似でしかないということに気づけたことから、自らのスタイルを築く基になったということなのでした。

三國シェフのこれから

2022年12月28日、著者は37年間営業した「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店されました。

その後の著者は、「もう一度、自分の身一つで料理と向き合いたい」とカウンターのみで八席のお店をしようとされています。

「料理は著者が一人で作り、お客さんと差し向かいで、自分のために料理を作りたい」というのが、そのお店のスタイルだそうです。

しかも、「メニューは決めない。その日の食材を、お客さんと相談しながら料理する。食材はもちろんすべて著者が目利きする」ということだそうです。

つまりこれからも“現役の料理人”として、自分の信じた道を貫いていくということを宣言されたのです。

料理こそが自分の人生を切り開いてくれ、深く追求する価値を教えてくれたといいます。

70歳を迎えるころにはその新しいお店「三國」が開店されることでしょう。

とても素晴らしいことだと感じました。

『三流シェフ』の感想・まとめ

「料理は面白い」という情熱が、これまでの料理人人生を支えてきた。
三流シェフだっていい。一流の彼らのように料理に向き合いたい。

著者は自分のことを「三流シェフ」と呼びます。

“世界のミクニ”が、なんていうことを言うのだろうと思いますが、それは謙遜ではなく、フレディ・ジラルデやアラン・シャペルという本物の天才に出会ってしまったから、そう思うのだと回想されました。

料理人として経験を積めば積むほど、思い知らされるということなのでしょう。

しかし、それを比べて嘆き悲しんでも仕方のないことです。

著者は、「料理は面白い」と、意識をはっきりさせたことで、料理に向き合う覚悟をし、これまでのたいへんな苦労を乗り越えてこられました。

そういう意識自体は、わたしたちだってできるはずです。

たしかに「人間あきらめが肝心」という場面だってあるでしょうけど、ただ単に「自分は料理が好き」という一念があれば、見えるものもあるということを著者三國清三氏は、教えてくれました。

人生の岐路に悩むとき、ぜひ読んでいただきたい一冊です。

『三流シェフ』の概要

本書の目次

『三流シェフ』

はじめに

第一章 1 小学校二年生の漁師
第二章 2 黒いハンバーグ
第三章 3 帝国ホテルの鍋洗い
第四章 4 悪魔の厨房
第五章 5 セ・パ・ラフィネ
第六章 6 ジャポニゼ
最終章 Last 最後のシェフ

おわりに

著者の紹介

三國清三(みくに・きよみ)

1954年北海道・増毛町生まれ。

フレンチシェフ。

中学卒業後、札幌グランドホテル、帝国ホテルで修行し、駐スイス日本大使館ジュネーブ軍縮会議日本政府代表部料理長に就任。

その後いくつかの三つ星レストランで修行を重ね帰国。

1985年に東京・四谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店。

世界各地でミクニ・フェスティバルを開催するなど、国際的に活躍。

2013年、フランソワ・ラブレー大学より名誉博士号を授与される。

2015年、日本人料理人で初めて仏レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章。

2020年YouTubeを始め、登録者数約37万人の人気チャンネルに。子どもの食育活動やスローフード推進などにも尽力している。

主な著書

スーパーの食材で フランス家庭料理をつくる 三國シェフのベスト・レシピ136』KADOKAWA (2021/12/22)
スーパーの食材が高級レストランの味になる 三國シェフのすご技絶品レシピ』KADOKAWA (2023/1/25)
食の金メダルを目指して』日経BP (2016/11/8)
おうちフレンチ 一流に教わる基本のレシピ』ナツメ社 (2017/10/16)
糖質オフのフレンチごはん』青春出版社 (2013/5/23)
クリニック内レストラン ミクニ マンスールの美味しすぎる健康食レシピ』宝島社 (2013/11/7)
家庭料理の裏技50: ミクニが教えるレシピ集』新潮社 (2012/10/26)

コウカワシン

最後までお読みいただきありがとうございます。

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この記事を書いた人

四国在住。
ミニマリスト。趣味は映画観賞と音楽鑑賞、読書、野球観戦。
映画は特に好き嫌いなくほとんどのジャンルーを観ます。音楽はジャズとクラシックが大好きです。読書は歴史書が好きでよく読みます。

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