
こんにちはコウカワシンです。
今回は瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)さんと瀬尾まなほ(せお・まなほ)さんの共著『今を生きるあなたへ』から学ばせていただきます。
『今を生きるあなたへ』は、どんな本?
『今を生きるあなたへ』は、ズバリ!「自分らしく生きるための参考書」です。
本書は、このような本
瀬戸内寂聴さんの本や法話で、「元気になった」という人は、多いのではないでしょうか。
そして、90歳を超えても、若々しい姿を見て、あやかりたいと思う人も多いはずです。
寂聴さんのあの元気は、どこから来るのでしょうかね?
この『今を生きるあなたへ』では、その秘訣が記されているのです。
本書の面白いのは、秘書の瀬尾まなほさんとの対話形式で、語られているところです。
まなほさんの現代感覚というか、若い人にありがちな悩みや考えを、寂聴さんにぶつけ、寂聴さんが正面から受け止め答えるという様は、とても面白く、厳しく、惹きこまれます。
先が見えない現代に生きるわたしたちは、誰でも苦しみや悲しみ、悩みを抱えています。
遺作ともいえる本書は、どっしりと構えていながら真摯に答える寂聴さんに会うことができます。
本書は誰におすすめか?
『今を生きるあなたへ』がおすすめな人
- 瀬戸内寂聴さんが好きな人
- すぐ他人の言うことに惑わされてしまう人
- 先の見えない将来に不安な人




『今を生きるあなたへ』の要点は?
『今を生きるあなたへ』は、瀬戸内寂聴さんが99年間生きてきた思想が詰まった本だと、瀬尾まなほさんが語っています。
まなほさんが、秘書になってから12年間という月日を、寂聴さんと過ごしたことにより生まれた信頼感というものが、この二人の会話から、うかがうことができます。
それを踏まえて、現代人にありがちな「悩み」について、寂聴節を利かせての語り口は、まさに見事という内容です。



それでは、6つの項目で43ほどの質問の中から、わたしの独断と偏見で取り上げさせていただきます。
愛は見返りを求めません
本当に好きになるということは、相手のすべてを許すことです
まなほ
相手のことを理解するには、どうすればいいですか?
寂聴
本当に好きな相手だったら、その人のことを理解しようと思うまでもなく、わかるのではないでしょうか。
「私のことをわかってくれない」と文句を言っているうちは、本当に好きではないのだと思います。
また本当に好きな相手なら、仮にわかってくれなくても許してあげることができます。
人とのつきあいの中で「なんでわたしのことをわかってくれないのだろう」と思うことがありますよね。
よくある自己啓発書には、「わかってもらう前に、まずは自分がその人のことをわかる努力をすべきだ」的なことを書いています。
寂聴さんは、「それはそうだろうけど、人はそれほど賢くない」と相互理解の難しさを言います。
そのうえで、相手にあまり期待しないというスタンスで、「相手のダメなところも含めてすべてを好きになることが愛情なのだ」と説くのです。
家族であれ、恋人であれ、友達であれ、無理してわかってもらおうとするのではなく、お互いが自然とわかり合えるような関係が「気が合う」であり、そうでなければ仲良くはなれません。
そして、こう言います。
寂聴
そもそも、好きになるということは、相手が心地よいようにしてあげることです。
もしもその人が寒そうにしていたら、暖かいところへ連れて行ったり、温かいものを食べさせてあげたりします。
相手と気が合って、好きだったら、言われなくてもそうしてあげるのが普通です。



「好きになる」というのは理屈ではない。本能的に心が動くということなんですね。
そして、相手に期待しすぎない、相手のすべてを許す。
こういう気持ちで人と関わっていければと思います。
若き日に薔薇を摘め。トゲで傷ついてもすぐに治ります
まなほ
最近の若い人は、あまり恋愛をしなくなったと言われています。そういう人たちの中には、「恋愛をして傷つくのが怖い」という人が少なくありません。
先生はよく若い人に向かって、「若き日に薔薇(ばら)を摘め」と言いますね。
あれは、どういう意味ですか?
寂聴
あの言葉は、ロバート・へリックという十七世紀のイギリスの詩人が書いた詩が元になっています。
「薔薇のつぼみは、摘めるうちに摘みなさい」というのが本来の訳のようですが、私はこう解釈しています。
薔薇にはトゲがあります。それでも美しいものですから、どうしても摘みたくなります。
その薔薇を摘んで、もしトゲで指が傷ついてしまったら、私のように百歳にもなる人はその傷が化膿して、なかなか治らないということにもなりかねません。
ですが、あなたのように若い人なら、たとえ薔薇を摘んでトゲで指が傷ついても、ちょっとなめておくだけで、二、三時間もすれば治ってしまいます。
ですから、たとえ傷つくことやつらいことがあっても、若いときならすぐに癒されるので、トゲを恐れずに、欲しいと思うものがあったらためらわずに手に入れるようにしなさいということです。
この言葉、「若い時の苦労は買ってでもしろ」によく似ています。
いろいろなことに挑戦して、仮にイヤなことがあったり、傷ついたりしても「すぐに治るから大丈夫」というポジティブさがあれば、何とかなりそうな気がします。
「若い」ということは、大きなアドバンテージです。
若いうちだから、何回もやり直せる、また盛り返せるという気になれるのも大きな魅力なのです。好奇心という武器も手に入れて、どんどん挑戦していくべきです。
寂聴さんも好奇心旺盛で、新しいことにチャレンジするのを躊躇しないそうです。
ツイッターが始まったころは「ツイッターがしたい」、「ブログがしたい」と挑戦するし、ケータイ小説が流行ったときには自分が瀬戸内寂聴だというのを隠して、「ぱーぷる」という名前で投稿されていたそうです。
寂聴さんは、「年齢を理由に、新しいことに挑戦するのをやめたくない」という信念を持たれています。
寂聴さんでもこうなのだから、まだまだ若い世代の人たちは、もっとどん欲に挑戦するべきですね。



わたしも大の新しいもの好きです。
ですが、最近では少し、そのような熱が冷めてしまった感じでした。
ですがこうなったら、老け込んでいられませんね(笑)
周りの人の幸せを考えなさい
他人の思いやることの大切さを説いた「忘己利他」の精神
まなほ
先生は人を思いやることの大切さについて、よく法話などで「忘己利他」(もうこりた)という言葉を取り上げますね。
あれは自分自身の生き方はさておき、自分のまわりの人や、この社会や世界のことにもっと目を向けるべきだという意味でもあるのですか?
寂聴
あの言葉は私が修行した天台宗の宗祖である伝教大師最澄さんが言ったもので、「己を忘れ他を利するは慈悲の極みなり」という言葉から来ています。
自分の幸せだけを追い求めても、人は欲に惑わされるだけで幸せになりません。
それよりも自分の利益をひとまず忘れて、周囲の人々の幸せについて考えなさいということです。
自分のためだけではなく、自分以外の人の幸せのために生きる、それが人を思いやることの極みであり、自分自身をも幸せにする道なのです。
「忘己利他」は、とてもいい言葉だと思います。
でも、だからといって無理にがんばる必要はありません。自分ができる範囲でいいのです。
人は誰でも自分のことを中心に考えます。
たとえば、「世の中で何が起きようと関係ない。自分さえよければいい」と考えている人は、あまりいないと思いますが、争いごとがいつまで経ってもなくなりません。
それこそ、「忘己利他」がそこにないのだと思います。
寂聴さんは、こう言います。
寂聴
私は以前、「いつも地球のすべての人が幸福で平和でありますように」という祈りを込めて、『美しいお経』という本を出しました。
私の好きなお経や法語を集めて紹介した本ですが、その中に、お経以外のものも収録しています。
その一つが、宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ」の一節です。
「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロイヒ(中略) サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ」
賢治は熱烈な『法華経』の信者でしたが、その一節には、人々の苦しみや悲しみを自分のこととして思いやる彼の心情が表現されています。
また、、彼は『農民芸術概論綱要』という本の中で、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とまで言っています。
この世界のどこかで、嘆き、悲しみ、苦しんでいる人がいる限り、人は「自分が幸せならばそれでいい」というわけにはいかないと思います。
それは人間であることの証しでもある、人を思いやる創造力が欠如しているということです。



寂聴さんらしい、温かくも厳しい言葉ですね。
ウクライナ戦争で、何の罪もない多くの市民が、理不尽にも非業の死を遂げています。
わたしも多くの人と同じく「何か自分にできることはないか?」と思う毎日を送っています。
「忘己利他」の気持ちで取り組みたいと思います。
他人の幸せを喜べない人間がいます。嫉妬は人間として醜い感情です
まなほ
恋愛に限らず、「あの人は自分よりも人気がある」とか「自分よりも裕福だ」とか、そういうことへの嫉妬については、どう思いますか?
寂聴
あなた自身が、そうした嫉妬の対象になっているでしょう。私の秘書として本を出したり、テレビに出たりしているおかげで、あなたはずいぶんといろいろな人から嫉妬されているのではありませんか?
まなほ
「秘書のくせに人前に出るべきではない」とか、「顔がきつそうだから、性格もきついだろう」とか、いろいろな事を言われました。
それも見ず知らずの人だけでなく、身近な人からも・・・・・・。
「顔も性格もきつい」というハガキが来たときは悲しくなって、すぐに先生に見せました。
そのとき先生は、「放っておきなさい。そういう人はきっとブスに決まっているから」と言ってくれました(笑)
寂聴
それだけあなたが、嫉妬されるまでの存在になったということです。
これまで何人もの人に秘書をしてもらいましたが、あなたほど私の秘書として世間に出た人はいませんからね。それに対して嫉妬をするのです。
では、あなたの立場になったら、みんながみんな、あなたのようにできるかといえば、それはできません。
その分、あなたは努力しています。
嫉妬をする人にはその努力がわからないから、表面的なところだけ見て、「あの人は運がいい」とか、「寂聴さんのおかげでいい思いをしている」とか、そんなことを言っているのです。
嫉妬は、傍目で見ると、すごく醜いと思いますが、自分は絶対にしないとは言い切れないところがあります。
人間は感情の動物ですからね・・・・・・。
ですが、嫉妬しない努力はできると思います。そして、嫉妬して本人を攻撃する人と距離をとることも必要です。
最後に寂聴さんはこんなことも言いました。
寂聴
そばで聞いていて、何でこんなくだらないことで嫉妬しているのだろうと思うことがあります。
ですが、私はいつも、言いたいだけ言わせるようにしています。
嫉妬とはいえ、発散をしたほうが、その人の精神衛生上はいいですからね。



これも「忘己利他」ですね。
嫉妬は醜いものですが、どうしても逃れられないなら、いっそ「言いたいだけ言わせる」という広い心でどっしり構えるしかないと思います。
思うがままに生きなさい
うまくいかないことを誰かのせいにするよりも、自分のことは自分で決めて責任を持ちなさい
まなほ
人生というのは何かを決めたり、選んだりということの繰り返しだと思います。
そのときに、誰かに決めてもらったほうが楽だということもあるでしょう。私は小さいときは母親の言うことが正しいと思っていて、母親の言う通りにしておけば間違いがないと思っていました。
でも、誰にでも自分の考えというのが実はあって、まわりの人間からこうしたほうがいいと言われても、自分ではイヤだと思うこともあります。
人の言うことを聞くだけは聞いても、やはり最後は自分で決めるようにしたほうがいいのでしょうか?
寂聴
大人になったら、そうすべきでしょう。
自分で決めたことは、自分で責任を持たなくてはいけません。
何でもお母さんの言う通りにして、それでうまくいかなかったら、「お母さんのせいでこうなった」と責めることができます。
でも、自分で決めたり、選んだりしたことは自分の責任ですから、うまくいかなかったり、つらいことが起きたりしても、すべては自分のせいです。
でも一人の人間としては、そちらのほうが正しいのではないでしょうか。
決断、岐路、選択・・・決めなければいけないことってたくさんあります。とくに今後の人生に大きく左右する決め事って、おろそかにできませんよね。
そんな大事なことを、たとえ親であれ、「人に決めてもらう」という選択をしたのであれば、それは本人の責任において決めたことだということです。
あとで、「あなたがこう言うから、こうなった」とか「あなたに任せて、無茶苦茶になった」なんていうのは、お門違いなのです。
最近よく聞く、「原因自分論」。
原因自分論とは、何かが起きた時、その原因は、「まず自分にあるのではないか」とする考え方です。
これに対し、うまくいかない責任を他人に押し付けるのを「責任他人論」と言います。
何でもかんでもうまくいかない責任を、他人に押し付けるのは簡単ですが、それで、自分の人生を自信を持って生きていると言えるのでしょうか。
「うまくいかない原因は自分にある。だから、次からは自分がこのように行動すれば、うまくいく」と考えたほうが、よっぽど建設的だし、物事がうまくいくと思いますよね。
なぜなら、「責任が他人にある」というのは、他人が改善してくれなくては、物事がうまく成し得ないのですから。
この話は、まだ続きがあって、まなほさんと寂聴さんのやり取りをみてください。
まなほ
でも、自分で決めるのはなかなか難しいことです。
自分のことが自分でもよくわからないということもあるし、やはり経験を積んだ人がこうしたほうがいいと客観的に言ったら、それに従ったほうがうまくいくのではないかと思ってしまいます。
寂聴
でも、あなたは私が「こうしなさい」と言ったら、そのまま従いますか。
最終的には、自分の判断で決めているのではありませんか?
まなほ
はい、最後は自分で決めています。



判断に難しいことは、なかなか自分で決められません。
たしかに信頼できる人の経験から教わることも多いです。
それを聞いたうえで、自分の身に置き換えてみる。
いわば、「自分ならどうか」という判断基準をしっかり持つということですね。
そのうえで、決めたことなら、それは立派に「自分で決めたこと」です。
自分で決めたなら、自分でしっかり責任をとる。
その繰り返しが、人生の自信になると思いますね。
「らしさ」にしばられる必要はありません。世間が押しつける規範も、自分らしさも
まなほ
世間や社会が押しつける「らしさ」以上にやっかいだと思うのは、自分で自分に押しつける「自分らしさ」だと思います。
今の人は自分らしさという言葉にとらわれすぎていて、それによってかえって不自由になったり、あるいはそういうことは自分らしくないからと言って、ものごとから逃げるための口実に使ったりしているように見えます。
「自分らしく生きる」とか、「自分らしさを大切にする」といった類の本もたくさん出ていますが、これまで先生は「自分らしさ」などというものについて考えたことはありますか?
寂聴
ありませんね。
そんなことを考える前に、自分の好きなようにしているし、やりたいようにしています。
「女らしさ」、「妻らしさ」、「母親らしさ」・・・性別や役割によって押しつけられることがありますよね。
いわゆる世間の価値観です。
寂聴さんは、「こうあるべき」とか、「何とからしさ」といったことは、そのときの権力者や為政者、その取り巻き連中が決めたことに過ぎないと言います。
ですので、政治体制とか権力者が変われば、全く反対のことを言い出すかもしれないと言います。
たとえば、これまでは男社会で、女性の社会進出がなかった時代の価値観は、今となっては過去の遺物になっているのです。
女だから、母親だからとか、そのようなことはまったく気にしなくていい、それよりも「あなただから」や「自分だから」という価値観。つまり、「自分らしさ」が人生に生かせればいいということです。
では、この「自分らしさ」について深掘りしてみたいと思います。
まなほ
そもそも、自分のことを自分が本当にわかっているかというと、私は疑問です。
ですから、自分らしさにとらわれることで、逆に自分がわからなくなってしまうということもあると思います。
自分らしさとは前もって自分で決めるものではなく、自分がやったことに対して後からついてくるものだと思います。
先生を見ていて思うのは、先生にとっての自分らしさとは、やはり思い切って何でもやってみるということに尽きると思います。
寂聴
そうです。
あえて言えば、思うがまま、やりたいと思うものに情熱を持って取り組むことが、私にとっての自分らしさです。



わたしも「自分らしさ」というものを考えたことはありますが、思えば思うほど、フォーカスがぼやけてきます。
でも、「情熱を持って取り組めるもの」と言語化すれば、それはそうだと腹落ちします。
情熱って理屈ではないんですよね。
だから、無理矢理に自分に押し付けることはせず、自然の成り行きに任せてみようと思います。
この世は有り難いことばかり
好きなことが、その人の才能です。何歳になろうが好きなことは見つかります
まなほ
先生はよく、「続けられることも才能だ」と言います。
寂聴
そうです。
そもそも好きなことでなかったら、ものごとは続けられません。
ですから、続けられるということは、それだけでそれが好きだということであり、それがその人の才能なのです。
子どもであれば、とにかく好きなことを見つけてやることです。
それが、その子どもの才能です。どうせやるなら才能を育てたほうが成功します。
「続けられることが才能である」ということですが、その通りですね。
続けられるということは、やはりそれが好きだからになりますが、それが才能というとちょっと言いすぎかなとも思います。しかも本当に好きなことであれば、成功するとまで寂聴さんは言います。
その真意を見てみます。
まなほ
一に才能、二に才能、三、四がなくて、五に努力でしたっけ?
寂聴
いいえ、一から五まで全部、才能です。
と言うか、そもそも何の才能のない人などいません。人間には、必ず何らかの才能があります。それを見つけてくれる人が近くにいるかどうかで、ずいぶん違います。
例えば、お母さんやお父さんが子どもの才能を早く見つけてくれれば、それだけ早く道が開けるでしょう。
逆に見つけてくれる人がそばにいなければ、なかなか才能を見つけてもらえず、それを開花させるのが遅くなるでしょう。
ですが、いずれにしろ、才能が何もないという人はまずいません。
まなほ
自分で自分の才能に気づくことはできますか?
寂聴
それは好きなことです。好きなことが才能です。
最近はどうかわかりませんが、そろばんが好きという子どもがいたら、それだけで才能です。
将棋が好き、囲碁が好き、それも才能です。毎日、野山を駆け回ったり、運動で跳んだり跳ねたりしているのが好きだというのも全部、才能です。
才能がなければ、そんなことはしません。
負けて泣いたり、投げ飛ばされてケガをしたりしながらでもやっているじゃないですか。
それは結局は好きだからであって、それが才能なのです。



プロ野球選手だって、野球が好きだからなれたのです。
たしかに野球センスが優れていないとプロにはなれないでしょうけど、結局は「野球が好き」という才能が後押ししてなれたのだと思います。
「好きなことがない」なら、これから見つけていきましょう。
どんなことでも才能になる可能性があるということです。
苦しむことは人間の運命のようなもの。それに従ってもいいし、逃げてもいい
まなほ
若い人に限ったことではありませんが、「どうして私ばかりが苦労するのか」、「これだけ苦労が続くのは私の運命なのか」と、悩んでいる人もいると思います。
就職先がなかなか決まらなかったり、自分の母親の介護が終わった途端に夫の介護が始まったりして、「こうして苦労や悲しいことが続くのは、私の運命なのか」と嘆く人もいると思います。
寂聴
気の毒ですが、たしかにそういう人はいます。
まなほ
先生、やっぱり運命というものはありますか?
寂聴
あります。絶対にあります。
そんなことをしなくてもいいのにと思うようなことをしてしまったりするのは、運命としか言いようがありません。
普段、考え方もしっかりしていて、どうしてあんな賢い人がこんなことをするのだろうと思うことがありますが、それもやはり運命です。
男の人なら、あんなにいい奥さんがいるのに、どうしてあんなにつまらない女に引っかかるのだろうとまわりの人は思うかもしれませんが、それもまた運命です。
仕方がないことです。
人間、生きていたら、何かしら「苦しさ」に遭遇します。
寂聴さんが言うには、そもそも仏教では、「この世は苦だ」と教えているそうです。
つまり苦しむことは、人間にとって運命のようなものなのだそうです。
「四苦八苦」(しくはっく)という言葉があります。
「四苦八苦する」とは、現状がとても辛い状況、切羽詰まった様子を表す言葉で用いられます。
そして四苦八苦とは、人が生きる上で避けては通れない「苦」の種類を表しています。
それが、生老病死の苦しみ
- 生まれる苦しみ
- 老いる苦しみ
- 病む苦しみ
- 死ぬ苦しみ
それに加えて、下記の四つの苦しみ
この八つの苦しみを合わせて「四苦八苦」と呼びます。
わたしたちが生きていくうえで逃れることができない苦しみであり、これが運命ということです。
これが、仏教上の教えであるということですが、寂聴さんは必ずしもそうではないと言います。
「私一人がどうしてこんなことをしなければならないのか」とか「こんなこと私にはふさわしくない」と思ったら、そこから逃げてもいいと思われているそうです。
たとえば、自分以外にも兄弟がいるのに、「私一人だけが母親の世話をしなくてはならないのはおかしい」と言って、逃げても構わない。「これが運命」的な考えを持たず、むしろこんな運命は変えてやるくらいの気持ちでいいということです。
それから、その運命に従うというのもこれもまた間違いではありません。
つまり、運命は自分の力で変えることができるということです。運命を変えるということは、自分で人生を切り開くことでもあります。
ただし、運命を変えようとすることでわざわざ他の苦労を背負うことになるかもしれません。
つまり、運命を変えたからといって、必ずしもいいことが待っているとは限らないということです。
でも、「自分で決めたことだから、納得がいく」のです。



寂聴さんも、普通の人生を歩めたかもしれないのに、自らガラッと変えました。世間から「なぜ」と言われ、かなり苦労されたそうです。
でも、後悔はされていないということです。それは「自分で決めたことだから、納得がいく」なのですね。
ものごとは必ず変わります
いいことも永遠には続きません。すべて変わるということを覚悟しておくこと
まなほ
悪いことがあっても、それが永遠に続くことはない、必ず変わるということは、いいことがあっても、やはりそれも永遠には続かず、必ず変わるということだと思います。
ですから、いいことがあって有頂天になっても、そのうち変わるわけですから、あまり調子に乗っていると、そのうち痛い目にあうということになりますね。
寂聴
それはそうですが、人間は有頂天になっているときほど、それがいつか変わるものだとはなかなか思えないものです。そこが難しいところです。
まなほ
悪いことがあっても変わる、いいことがあっても変わる、だから悪いことがあっても絶望してはいけないし、いいことがあっても有頂天になって安心し切ってはいけないということですね。
寂聴
人間は、いいこともあれば、悪いこともあります。
そして、そのどちらも永遠に変わらずに続くということはありません。必ず変わります。
大事なのは、すべては変わるということを覚悟しておくことです。
今が幸せだと思えば、それが奪われるということはとても怖いことです。
しかし、まなほさんは、変わることはおもしろいことだと言います。
苦しみの最中にいるときはさすがにつらいですが、後から思えば、その時の苦しみがあったからこそ、今の幸せがあると思えるし、すべては今につながっていると思えるのだそうです。
つまり、今の自分を作ったのは、過去のつらい経験だということです。結果、そのすべては意味があったということにもなります。
それに対し、寂聴さんは、人の心も無情であり、必ず変わるものだからこそ、どんな苦しみや悲しみもいつかは癒される。もし人の心が変わらないなら、いつまでも悲しむことになります。しかし、どんな悲しみも時間が経つと段々癒されていきます。
京都では、時間が苦しみや悲しみを癒してくれることを「日にち薬」(ひにちぐすり)と言います。それは人の心が無情であり、必ず変わるものだからという思いがこもっていると言えますね。



昔の苦労話が自慢話になるということは、かなりな人が持っていると思います。
「あの時苦労したから今の自分がある」というのは、わたしにもありますね。
ですので、「明けない夜はない」という気持ちで乗り越えましょう。
反対に、今がよくても悪いときがくるという危機感は持っておいていいと思います。
ユダヤのタルムードにある「七匹の太った牛と七匹の痩せた牛」のお話は、良い教訓だと思います。
イヤなことを辛抱する必要はありません。さっさと環境を変えればいいのです
まなほ
イヤなことがあったら、そこから逃げるのも一つの方法ということですか?
寂聴
「逃げる」と言うと、何だか自分がみじめになります。
ですから、逃げるというよりも、「環境を変える」と言ったほうがいいかもしれませんね。
いずれにしろ、そんなことで辛抱する必要はありません。
日本では昔から、「苦労から逃げてはいけない」、「イヤなことがあってもがんばって続けるのがいいことだ」という価値観が根強くあります。
昔は世の中が不自由だったので、我慢していると、そのうちよくなることがあったからと寂聴さんは言います。
しかし、「仕事に行きたくない」「学校に行きたくない」と心身を病んでいる人もいます。どうしても行きたくないというのは、それ自体が病気であるかもしれませんので、無理していく必要はないとも言います。
現代問題として、いじめやパワハラなど、どうしても自分で解決できない問題がある場合は、さっさと環境を変えろと言うのが寂聴さんの持論です。
それを「逃げた」と考えずに「環境を変える」という意識を持つことで、自身の自己肯定感も高まってくるということですね。
もう、何でもかんでも「我慢することがいい」という時代ではありません。
「我慢しない」という選択肢だってあるのです。
結果それで、よけいな苦労をすることがあるかもしれませんが、その苦労する覚悟さえあれば、我慢なんかしていないで、さっさと自分が好きなことをすればいいのだということです。



今の世の中は、昔に比べて複雑です。
それは大人の世界も子どもの世界もそうだと言えます。
そんな中で心身を痛める苦労なんかしなくていいんです。
だからこそ「環境を変えればいい」という価値観が必要だと思います。
やりたいことを貫きなさい
直感とやってきたことを信じて、自分が好きなことを貫き通す
まなほ
先生は、「直感」というものを信じていますか?
寂聴
はい、信じています。
まなほ
直感で何かを決めたということはありますか?
寂聴
だって、ものを買うときは、あれは直感でしょう。
まなほ
洋服のようなものではなく、例えば出家するとか・・・・・・。
寂聴
それも突き詰めていったら、結局、直感だったと思います。
昔から「なぜ出家したのか」と、よく聞かれました。
いちいち答えるのが面倒くさかったこともあり、そのつど、「男との不倫の関係を断ち切るため」とか、「自分の文学を高めるため」とか、いろいろな事を言ってきましたが、それだけではなかったと思います。
最近では「更年期のヒステリーだった」と答えたりしていますが、結局、「わからない」というのが本音です。
あえて言うなら、それは直感としか言いようがないものでしょう。
でも、私は出家のおかげで、小説家としての人生の難局をうまく乗り越えることができたと思っています。
直感とは、理性を働かすというより、感覚的にただちにとらえること。
これを踏まえて、次の会話を見てみてください。
まなほ
本能的なものも含めて、そうした自分の感覚を大切にすべきだとおもいますか。
例えば、自分はこれが好きだとか、これは何となくイヤな感じがするとか・・・・・・?
寂聴
それは、すごく大切にした方がいいと思います。
生まれたときから身についているような感覚ですから、何かあったときにはそうしたものに従えば、だいたい正しい方向に進めると思います。



直感と言うのは、自分が生まれてきたときから身についているとか、これまでの経験などを土台として、自分で状況判断している感覚ではないですかね。
自分の判断で、やったことだから判断ミスも少ないというのもうなずけます。
こういう感覚は大事にしていきたいですね。
好きなものをおいしく食べることが、その人にとっての一番の健康法
まなほ
先生は、基本的には何でも食べますね。
寂聴
好きな食べものはそう変わりません。
でも、歳を取ったので、やはり食べる量は少なくなりました。
ただ、お肉は相変わらず大好きです。お肉を食べないと頭が悪くなります。前にもどこかに書きましたが、お肉を食べるとボケません。
「肉ばかり食べていると病気になる」とか、「野菜を食べなくてはダメだ」とか、いろいろ言われていますが、いちいち気にする必要はありません。
好きなものをおいしく食べることが、その人にとっての一番の健康法です。
素晴らしい!!
よくぞ言ってくれました。
わたしも、食べるものを気にして、「お肉を控えようか・・・・・・」とか、「こうなったらベジタリアンになって長生きしよう」なんて考えていました。
でもそんなこと、長続きしません。
寂聴さんは、ごはんだけでなく、お菓子もよく食べるそうです。
お菓子を食べるようになったのは、まなほさんが秘書になってからだそうですが、とにかく「よく食べて、よくしゃべる」プラス「よく笑う」と、こういうことが、健康の秘訣のような気がします。
それから「運動」も大事です。
まなほ
健康な体になったのは、五十一歳のときに出家して、山歩きなどの修業をしたことも影響していると、どこかで書いています。
寂聴
私は天台宗の本山である比叡山で修業しました。
二十歳ぐらいの若い男の人たちと一緒に修行で山の中を歩くわけですが、彼らは脚が長いので歩いているつもりでも、私は脚が短いので走らなくてはなりません。
それで、ずいぶんと鍛えられました。
あのときは七キロも痩せました。
たしかに、このような修行は、普通の人なら無理かもしれません。
ここまでやる必要はないでしょうけど、「運動」する習慣はつけたほうがいいでしょうね。



「よく食べて、よくしゃべり、よく笑う」
人間が生きるうえで、大切なことです。
そして「運動」する習慣を持つ。
これは、原始時代から続く「人類の基本」のような気がします。
健康寿命を延ばすために、ぜひ取り入れたいですね。
『今を生きるあなたへ』の感想・まとめ
『今を生きるあなたへ』は、2021年の夏に寂聴さんとまなほさんが取材を受けるという、ごく最近のことでした。
でもその年の11月9日に寂聴さんはお亡くなりになりました。
寂聴さんのまさに人間らしい生き様と愛あふれる語り口を知るわたしたちは、あまりにも突然の死にただ驚くしかありませんでした。
誰も予想できなかった死に悲しみにくれたとしか言いようがありません。
ですが、最後にも素晴らしい足跡を残してくれました。
人間は、弱いもので、何か支えがほしいものです。
そんなときに、寂聴さんの言葉を思い出しましょう。
本書はそう言った意味で、どのような人にも心に染みる言葉が満載です。
よろしければぜひご一読ください。
『今を生きるあなたへ』の概要
本書の目次
『今を生きるあなたへ』
親愛なる先生へ
第一章 愛は見返りを求めません
第二章 周りの人の幸せを考えなさい
第三章 思うがままに生きなさい
第四章 この世は有り難いことばかり
第五章 ものごとは必ず変わります
第六章 やりたいことを貫きなさい
まなほのこと──瀬戸内寂聴 何も知らなかったまなほの成長を見ながら
寂聴先生のこと──瀬尾まなほ 私に勇気を与えてくれる心強い先生へ
著者の紹介
瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)
小説家、僧侶(天台宗権大僧正)。
1922年、徳島県生まれ。東京女子大学卒業。
21歳で結婚し、一女をもうける。
京都の出版社勤務を経て、少女小説などを執筆。
1957年に「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞、本格的に作家生活に入る。
1973年に得度し「晴美」から「寂聴」に改名、京都・嵯峨野に「曼陀羅山 寂庵」を開く。
女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞、泉鏡花文学賞など受賞多数。
2006年、文化勲章受章。
2021年11月9日に逝去、享年99。
著書
『その日まで』講談社 (2022/1/13)
『新装版 寂聴 般若心経 生きるとは』中央公論新社 (2021/1/10)
『笑って生ききる』中央公論新社 (2020/3/25)
『悔いなく生きよう』祥伝社 (2020/2/10)
『愛の倫理 』青春出版社 (2020/11/28)
『寂庵コレクション Vol. 1 くすりになることば』光文社 (2019/12/30)
『寂庵コレクション Vol. 2 あなたは、大丈夫』光文社 (2020/4/30)
『はい、さようなら。 寂聴あおぞら説法』光文社 (2019/11/30)
『愛することば あなたへ』光文社 (2018/5/30)
『新装版 かの子撩乱』講談社 (2019/7/12)
『蘭を焼く』講談社 (1997/12/10)
『美は乱調にあり』文藝春秋 (2014/5/25)
『花に問え』中央公論新社 (1992/6/1)
『場所』新潮社 (2004/8/1)
『源氏物語』講談社 (2007/1/16)など多数。
共著
『命の限り、笑って生きたい 』光文社 (2018/11/20)
瀬尾まなほ(せお・まなほ)
瀬戸内寂聴秘書。
1988年、兵庫県生まれ。京都外国語大学英米語学科卒業。
卒業と同時に瀬庵に就職。
3年目の2013年3月、長年勤めていたスタッフたちが退職し、66歳年の離れた瀬戸内寂聴の秘書になる。
困難を抱かえた若い女性や少女たちを支援する「若草プロジェクト」の理事も務めている。
著書
『おちゃめに100歳!寂聴さん』光文社 (2017/11/20)
『寂聴先生、ありがとう。 秘書の私が先生のそばで学んだこと、感じたこと』朝日新聞出版 (2019/6/7)
『寂聴さんに教わったこと』講談社 (2022/1/13)




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