
こんにちはコウカワシンです。
今回は白石あづさ(しらいし・あづさ)さんの著書『お天道様は見てる 尾畠春夫のことば』から学ばせていただきます。
『お天道様は見てる 尾畠春夫のことば』はどんな本?


『お天道様は見てる 尾畠春夫のことば』 の内容はズバリ!「人間の根本」を学べる本です。
本書はこのような本
東日本大震災をはじめいろんな被災現場で献身的に作業し山口で行方不明になった2歳幼児を発見し救助したことでも有名なスーパーボランティア尾畠春夫(おばた・はるお)さん。
その姿は元気印そのもので、被災地の人たちはもちろん、テレビや報道を通して元気・勇気をもらった人はたくさんいるのではないでしょうか?
わたしもその一人です。
そのような尾畠さんの半生、生き様、ものごとの考え方などを書き記した本に出会いました。それがこの 『お天道様は見てる 尾畠春夫のことば』です。
著者は、ライターでフォトグラファーの白石あづささん。白石さんは、大学卒業後に地域紙の記者を経て、約3年の世界放浪へと旅立ち、帰国後は旅行雑誌、グルメ雑誌、週刊誌などに執筆されてきました。
これまでに訪ねた国は100以上にのぼり、著書に本書 これまでに訪ねた国は100以上にのぼり、著書に本書以外では『世界のへんな肉』、『世界のへんなおじさん』があります。
そんな白石さんが、魅力ある「尾畠春夫」を会話した内容も含めて、洗いざらい(?)書き記したのが本書なのです。
本書は誰におすすめか?
本書はこのような人におすすめです。
『お天道様は見てる 尾畠春夫のことば』がおすすめな人
- 心にいつもモヤモヤがある人
- 自分の人生を他人に依存しがちな人
- 生きる目的を見失っている人
『お天道様は見てる 尾畠春夫のことば』 の要点は?


「スーパーボランティア」の尾畠春夫さんは、長年生業にしていた自身のお店を65歳の誕生日にたたみ、今まで仕事や子育てでお世話になった社会へ恩返しがしたいと全国の被災地に赴くようになりました。
ふだんの生活は毎月の年金55000円でまかない、それでも切り詰めるために雑草などを食べる。なぜそこまでするのかというと被災地に駆けつけるためのガソリン代などをストックするため。
体力も必要と毎日8キロ走り、ここ10年は病気知らずの尾畠さん。
これは誰にでもできることではありません。



そんな尾畠さんの考え方や姿勢を知るために、生い立ち、ボランティアに関するエピソード、そして本書から出た名言を、わたしの独断と偏見で紹介させていただきます。
尾畠さんのおいたち
学校に行けなかった奉公時代
尾畠さんは、1939年(昭和14年)10月12日、大分県の国東市安岐町(くにさきし・あきちょう)の下駄職人の家に生まれました。
7人兄弟の三男だった尾畠さんは、小学5年のときに農家に奉公に出され、中学2年まで務めた後、パン屋に奉公しました。中学を卒業するまでの間、ほとんど学校に通うことができなかったそうです。
魚屋開業を目指し15歳で修行生活に
1955年(昭和30年)、別府の魚屋に務めることになりました。別府の魚屋で3年半が経った頃、そのお店の都合と将来魚屋を開業する目標を持ったので下関、神戸の魚屋で修行することになりました。
別府3年半、下関2年半、神戸4年。尾畠さんが15歳で魚屋修行始めてから10年の月日が経ちました。競りや魚のさばき方、接客の基本も覚え、十分に独立してやっていける自信はついたものの、お金が足りません。
そこで、お金を貯めるために東京でとび職をすることにしたのです。
魚屋を開業するためにとび職をやるって、大冒険な体験でしたが、3年が経ち高所にも慣れ技術を覚えると現場のリーダーを任されるようになったそうです。
とび職の頭、つまり鳶頭であるおやっさんから、とび職の一人前の証である「半纏」(はんてん)をいただくまでに成長し、とび職をやめることをたいへん惜しまれましたが、初志貫徹で、故郷大分で、自分の店を持つとおやっさんに頭を下げたのです。
とび職の仕事では先輩から「仕事は段取り7割、実働3割」と教わり、仕事の段取りや現場によって手順を変えたりと自分で考えられるようになり、この経験がのちのボランティア活動で大いに役に立ったということです。
大分に戻り魚屋開業
28歳のとき、東京から別府に戻りました。実は別府の魚屋修行時代に見初めた初恋の女性が忘れられなかったのです。その女性と結婚したい、そこで、その女性の父親に直談判することにしたのです。
まず、自分がその女性に対して本気であることと、真面目に今まで仕事をしてきたことを証明するためにとび職時代に鳶頭のおやっさんからいただいた半纏(はんてん)と、コツコツと貯めた入金ばかりが印字された通帳を見せ、「娘さんをください」と、頭を下げたのです。
女性の父親は、さすがにおどろきましたが、通帳と半纏を見て、尾畠さんを認め「よし明日、すぐ結婚しろ」と言われたそうです。みごと尾畠さんは初恋の人と結ばれました。
女性の父親、つまりお義父さんは、魚屋開業に際し、開店場所を探してくれたり、尾畠さんと一緒に井戸を掘ってくれたりと協力を惜しまなかったそうです。
こうして無事に開店することができました。
開店してからが勝負ということで、取り扱う魚の研究は欠かしませんでした。魚をうまくさばくために夜中の1時だろうが2時だろうが、何回も練習を繰り返し、血のにじむような努力をされたのです。
おかげで、お店の評判は上がり、仕出しの注文も増えていきました。その腕前は三代続く老舗の主人が教えを乞うてきたほどです。
そのように大評判のお店も65歳を機に閉店されました。それは尾畠さんにやりたいことがあったからです。
店を閉めて第二の人生へ
小さな店だけど、お客さんに喜んでもらえるいい商売をしたい。そう願って、毎日、奮闘してきた尾畠さんの密かな自慢は、「開店以来、一度も赤字を出したことがない」ことです。
それでも、自身の子どもに継がせることはしませんでした。
そのうえ、子育ても終え、ようやく肩の荷が下りた・・・。とはいえ、温泉に庭いじりといった余生を静かに過ごす暮らしを望んでいるわけではない尾畠さん。まだ65歳のその体は、チャレンジしたいことを無限に抱えていたのです。
それは何かというと、「今まで、自分の家族を養うため、魚をさばいてきた手を、今度は世の中のために生かしたい」という壮大な目標を掲げるとともに現役生活の終わりではなく、新しい人生の幕開けを迎えることでした。
尾畠さんのエピソード
はじめての災害ボランティア
2004年(平成16年)の秋、尾畠さんは65歳の誕生日を機にご自身のお店を閉めました。そんな矢先、10月23日の夕方、新潟県で大規模な地震が起きたのです。マグニチュード6.8、最大震度7の中越地震です。
大分から新潟まで1100キロ。愛車ホンダのカブで下道を約20時間以上かけ向かいました。
被災地に着き受付を済ませ、他のボランティアの人と6人でチームをつくり、大きな木造の2階建ての家に派遣されたときの出来事です。
被災した70代の女性から2階にある大きなタンスを下ろしてほしいと依頼を受けました。他のボランティアにも頼んでみたが「ばらすしかない」といわれ、なかばあきらめていたとのことでした。しかし尾畠さんは、あきらめません。
とび職人だった経験を生かし、必要な道具などない状態でも2階の窓から下ろす手はずを整え、他のボランティアと協力して無事に下すことに成功したのです。
そのタンスは女性にとって、嫁入り道具であり、とても大切なものだったので、本当に喜んでくれたそうです。
著者は、この話を聞き、尾畠さんが最初から頭一つ抜けたボランティアだったのだと感心したそうです。
初めてのボランティアに参加した人なら、他のボランティアについていくのが必死で、被災者の口に出せない想いなどを察する余裕はないし、仮に気がついたとしても必要な道具がなければ無理だとあきらめてしまうでしょう。
尾畠さんは現場にある道具をうまく利用し、みんなをまとめ大掛かりな作業をやりとげたのです。まさに「為せば成る」の精神だということです。
66歳の挑戦「日本縦断」
新潟から戻り、今度は50代から始めた地元大分の名峰由布岳の整備ボランティアに没頭した尾畠さん。その一方で「日本縦断3250.5キロの旅」を計画しました。
しかも船を使う以外は徒歩という過酷な旅です。1日30~40キロ歩き、100日くらいで達成という計画を立てました。2006年3月30日に大分から鹿児島に移動し、スタートは大隅半島の佐多岬です。
折り畳み傘を広げ、ブルーシートをかけただけのテントで野宿し、食料はできるだけ現地調達する。たとえば途中の海岸で採ったワカメを干したり、道端の雑草を鍋で煮たりしたそうです。
時には思いがけず、その土地の人からうれしい差し入れがあったりし、ご飯をくれたり、コーヒーのおもてなしをしてくれたり、漁師さんがウニをくれたりと日本人のやさしさを感じたそうです。
その中でも忘れられないのが、宮城県南三陸町で、大雨に遭い何もかもがびしょ濡れになり気落ちしていたところに60代くらいの女性が心配して声をかけてくれたときのことです。
尾畠さんの安否を気遣い、この先、店も食堂もないからとたくさんのおこわを運んできて「これ食べて元気出して」と持たせてくれたのです。
その女性の歩き方で、左半身が不自由なことに気がついた尾畠さん。それなのに両手で抱えるほどの重いおこわを一生懸命運んできてくれたことに心底感動し、「後でお礼のはがきを出したい」と連絡先を聞いたのでした。
その女性の名は「マキノ」さん。
そこで気づいたのは、旅の思い出となるのは、美しい景色よりも人との出会いかもしれないということだったそうです。
そこから1日8時間から12時間、雨の日も風の日も休まずに歩き続け、出発から92日の7月1日に日本最北端の宗谷岬にたどり着いたということです。
60キロあった体重は53キロに減り、足はまめだらけ。靴を5足履きつぶしたこの旅は、今まで出会った人たちのやさしさに感謝し、その人たちの幸せや健康を願い、歩き抜いたという感慨深いものになったのです。
街を飲み込む黒い濁流
2011年3月11日、いつものように清掃ボランティアから帰宅し、テレビをつけると大変なことになっていました。画面いっぱいに黒い濁流が映し出され、それは、とどろく音とともに街を飲み込む黒い大津波だったのです。
水面には、折れ曲がった電柱が顔をのぞかせ、木造の家々が流されていく。かろうじて残ったビルの屋上には、取り残された人々が助けを求めて必死に手を振っていたのです。
東北地方を中心に最大震度7の揺れを記録した巨大地震とともに岩手、宮城、福島など太平洋沿岸部を大きな津波が襲い、12都道県で、約22000人の死者と行方不明者が発生。そして福島第一原発のメルトダウンは世界に衝撃を与えることになりました。
食い入るように画面を見ていた尾畠さんは、ハッと我に返り、震える手で5年前の日本縦断徒歩旅行でおこわを差し入れてくれた宮城・南三陸町の女性マキノさんに電話をかけてみたのです。
年賀状でのやりとりで元気にしていることはわかっていたのですが、この津波で体が不自由なマキノさんが無事に逃げられたのかが、知りたくて何度も何度も電話をしたけど、まったくつながりませんでした。
こうなったら、居ても立っても居られないのが尾畠さんです。直接、行って確かめるしかないと思って、道路を調べたり、食料を準備したりして、大分を出発したのが12日後の3月23日。
出発から60時間、3日後の3月26日に一関に着いたものの道路はズタズタで橋は流され遠回りをしなければならない。道にも迷い、なかなかたどり着けないながらもなんとか5年前にマキノさんと出会った場所まで着いたが、その一帯はぐちゃぐちゃになっていました。
避難場所になっていた中学校に行くと、マキノさんの家までは波は来ていないということで、マキノさんの安否が確認できたことに安堵しました。
マキノさんの家まで案内していただき、再会を果たしたのです。心配で大分からほとんど眠らず走り続けた尾畠さんは極限状態でした。
マキノさんが生きていてくれたという奇跡に胸がいっぱいで、聞きたいことがたくさんあったにも関わらず、言葉の一つも出てこない。涙がボロボロ出てくるのをどうすることもできなかったのでした。
そして尾畠さんはマキノさんを抱きしめ10分もの間、二人して子どもみたいに泣いたそうです。温かいおこわがつないだ縁ではありますが、人と人の心が通じ合うというのはこのことですね。
もちろん尾畠さんは、このまま大分には帰りませんでした。マキノさんの無事を確認したものの南三陸町では、33もの避難所に1万人近い人々が避難しているのです。
尾畠さんは南三陸町に残り、ボランティアを開始。ですが、震災後も余震は続き、道路は寸断され電車も止まっている。ガレキが積み上がった場所は倒壊の恐れがあるので大型のショベルカーが到着次第作業することになりました。
しかし、ガレキや泥の中には思い出が詰まった宝物が埋もれているのも確かです。「もし、思い出の写真が1枚でも見つかれば、すべてを失った人々の心のよりどころになるのではないか」と考えた南三陸町の佐藤仁町長。
そこで急遽、ガレキの中から被災者の写真を探し出し持ち主に届ける「思い出探し隊」を結成し、その隊長を尾畠さんに依頼したのです。
尾畠さんは、遠い大分からやってきた見ず知らずの自分になぜ町長が直々に頼みに来るのかと思ったそうですが、どうしてもという町長の熱意を感じ、隊長を引き受けたのです。
「アルバムや思い出の写真をガレキの中から拾って、汚れを落として町民に渡す」という作業ながら場所も洗い流す水も入手困難な状況。ですが、場所はテントの活用、洗い水は川へ汲みに行くという尾畠さんの機転で確保することができました。
そのうえ尾畠さんは、被災された人たちの心情も考え、写真一枚一枚を刷毛でなぞるように慎重に泥を落とし、落ちないときだけ水で流す、乾かすときは日に焼けて色がうすくならないように陰干しするなどの丁寧な作業を徹底したのです。
これには、写真修復の専門家も太鼓判を押したそうで、尾畠さんの臨機応変ではあるけど、常に慎重に丁寧な思考が功を奏したといえますね。
佐藤仁町長の人を見る目に狂いはなかったということです。
島で消えた幼児
2018年8月12日、山口県南東部、瀬戸内海に浮かぶ屋代島(周防大島)で、2歳の男の子ヨシキ君が行方不明になった事件は記憶に新しいですよね。
警察や消防が150人態勢で3日がかりで探しても見つからず、メディアも連日にわたってこの件を報じ、全国から心配の声が寄せられていました。
そこに尾畠さんが駆けつけ、たった一人で捜索開始からわずか20分で発見。ヨシキ君発見の朗報とともに尾畠さんの神がかり的な救出劇に世間は大騒ぎとなりました。
ヨシキ君が行方不明になったとき、尾畠さんは、ほんの数日前まで、西日本豪雨により被災した広島県呉市に滞在し、泥の撤去などの作業をしていたが、お盆の準備をするために一時大分に帰宅していたのでした。
行方不明のニュースを大分で知ったときには、もうすでに1日が経過していて、翌14日の朝刊を読んでも、まだ行方不明だと知り、尾畠さんは居ても立っても居れず山口へ向かったのです。
現地に入り、役場や警察の詰め所で、捜索の許可を得て、ヨシキ君のご家族にも会い「自分がお子さんを探し出したときには、必ず手渡します」と約束をされました。
ご家族は疲れ果てた状態でしたが、尾畠さんに「お願いします」と頭を下げたのです。その気持ちを思うと胸が締め付けられたと後述されています。
尾畠さんは、もう日も傾いていたため、明日の本格的な捜索をするとして、日が暮れるまで周辺の現場を歩いてみたり、行方不明になったときの状況を分析されたそうです。
捜索隊が探していたのは、家の周りや山のふもとが中心。みんなは2歳児が遠くに行くはずがないと判断していたのです。尾畠さんは、「ヨシキ君が小道に入らず、農道を進み、山の奥へと登って行ったのでは?」と検討をつけたのです。
翌日早朝、ご家族にあいさつしてから、山の中へ入っていきました。細い山道に入ると辺りは急斜面になって、ここも警察が捜索した踏み跡がありました。なお奥に分け入りながら「ヨシくーん!」と何度も呼んでは立ち止まって、耳をすませました。
五感をフルに使い、一歩、また一歩、慎重に足を運ぶ。山道に入って20分ほど経った頃、道のわきの斜面を下ったところに大小の石がゴロゴロ転がっている小さな沢が見えました。
その沢に向かって「ヨシくーん!」と呼びかけたそのとき、「おいちゃん、ぼく、ここ、ここ!」と、耳元で聴こえたのです。尾畠さんは、心臓が止まりかけるくらいびっくりしました。
声はすれど、姿は見えない。耳をすませながら声がする方に近寄ってみると、沢のそばの苔むした岩にちょこんと座っているヨシキ君を見つけました。
8月15日午前6時48分発見。それは生死の境といわれる72時間の約4時間前だったということです。尾畠さんは、ヨシキ君の体に怪我がないか見まわし、大丈夫なことを確認してヨシキ君を抱きかかえ、下山したのです。
自らが与えた塩飴を美味しそうに食べるヨシキ君を見て安堵したところに警察官15人が駆け寄ってきて「すぐその子を渡してくれ!」と尾畠さんに迫ったのでした。
しかし、尾畠さんはヨシキ君を離しませんでした。「すいませんけど、昨日も今朝もご家族に会って、もし見つけたら必ずどんなことがあっても手渡しますからと約束しているから、今は渡せません」と断ったのです。
警察官はお役人ですから、その場でヨシキ君を引き渡すと、家族に会わせる前に、ヨシキ君に事情聴取したり、体を調べたりするのが決まりなのだそうです。
しかし、一刻を争うような怪我はしていないし、なんといっても一刻一秒でも早く我が子を抱きしめたいであろうご家族に届けるのが先決だと、頑として譲らなかったそうです。
警察官のリーダーに対し、もう一度「おやっさん、口約束も契約だから、どうしてもご家族に直に渡さんと。それがもし違反なら、渡した後に、ワシ、ワッパ嵌められに戻りますから」と頼んだのです。
すると、わかってもらえたのか立ちはだかっていた警察官に合図し、パーッと道を開けてくれたのでした。その道が開いた先には、ヨシキ君のお母さんが呆然と立ち尽くしていました。
無事にヨシキ君をご家族に渡し、警察も捕まえに来なかったということで、尾畠さんは大分に帰ろうとしたら、今度は警察官のリーダーが「感謝状を渡したいから待ってくれ」と。「そんなの要らない」と言ったが、もらってくれないと困るというのでもらったそうです。
ご家族からのお礼も受け取らず、警察からの感謝状も要らないという尾畠さん。「ボランティアは対価はいただかない」を信条としている尾畠さんらしいエピソードですよね。
強運を呼ぶ尾畠さんの言葉
本書は、最初から最後まで、名言に彩られています。そこでわかるのは、「なぜ尾畠さんは注目を集め、さらに大役を任せられたり、ヨシキ君をいち早く探し出すことができたか」という強運をものにできる思考法です。
そんな中から、心に残った「尾畠語録」を少し紹介させていただきます。
「天よりも高く、海よりも低く、五感を働かせて生きろ」
尾畠さんにはお孫さんが5人いるそうです。
もしお孫さんが「ノーベル賞が欲しい」とか「ノーベル賞は、おれには無理」と言ったなら、「いや、あきらめるのはいつでもできる。夢に向かって、やれることは死ぬ気でやりなさい」と声をかけるといいます。
これは何も「ノーベル賞」に限らず、自分の希望する道があるのなら、どんなに険しくても頑張れというはなむけの言葉ですね。
反対に「ノーベル賞なんて欲しくない」というのなら「よっしゃ、それならお前は、広ーく、浅ーく、天よりも高ーく、海よりも低ーく、いつまでも五感を働かせて生きていけ」と声をかけるそうです。
目標がない人生をどう生きるかということでしょうけど、見たり、聞いたり出かけたりすることで、その経験が役立つときが必ず来るから、と励ます言葉に尾畠さんの生き様が凝縮されていると感じるのはわたしだけでしょうか。
「目標、計画、実行するクセが夢への近道」
みなさまは、「もし自分が夢を持ったら、どうやって実現するのか?」と考えたことはないですか。それにはまず、「目標を定める」、その次は「計画を立てる」、そして「実行する」とくるのではないでしょうか。
もし今たちまち、夢が見つからなくても、ふだんからどんな小さなことでも、「目標」「計画」「実行」の3クセをつけておくといいと尾畠さんは言います。
たとえば、カレンダーを見て、「あ、今日は東京から友達が遊びに来る予定だけど、時間通り車で迎えに行くには、どの道がスムーズかな?空港道路が無料だから、この道で向かおう」と目標、計画を立てるのです。
そのうえに「ああ~、友達には地元のきれいな風景を見てほしいから、帰りは景色のいい〇〇号線を通ろう」など、プランを何通りも持つと、考えるだけでも楽しくなり、実行することの喜びを覚えます。
ちょっとオーバーかもしれませんが、いつか自分の人生をかけるほどの夢が見つかったら、もう「自分の命がなくなる」くらいな努力して、絶対あきらめてはいけないという尾畠さん。
それにはこの「目標」「計画」「実行」の3クセが大いに役立つということです。
手を出すな、口を出すな、目を離すな
尾畠さんの子どもの教育論に「手を出すな」「口を出すな」「目を離すな」があります。
「手を出すな」とは、子どもに暴力をふるうという意味ではなく、何事も「お母さんがやるから」と、子どもの代わりに自分がいろいろなことをやってしまうことです。
そして、ちょっとしたことに「ああしたらダメ、こうしなさい」と口を出すことも良くないと尾畠さんはいいます。
たとえば、子どもが鉛筆をカッターで削るという作業をするとき、「手を切ったらどうするの!」と、すぐ手を出したり、口を出したりするのは、いかがなものかということです。
手を切って多少の切り傷ができても、それが致命傷にならないのなら、それも失敗から学ぶ良い経験ですよね。
それから一番大事なのが、「目を離すな」です。
今、子どもがどこにいるのか、誰といるのか。もし子どもが公園に行ったなら、「何してるんだろう?」と、こっそり見に行くとか、部屋にいるはずの子どもが本当に部屋にいるのかなどを気にすることは、なんといっても親の責務ですよね。
全国で子どもが巻き込まれる事件が多発していますが、そのほとんどは親の責任が大半ですよね。まさか自分の子どもが巻き込まれるはずがないと思うでしょうけど、「目を離すな」は大きな意味を持つと感じました。
いいことしてもズルいことしても、お天道様は見とる
尾畠さんが、まだお店をしていたころの話です。
「もう少し、店が広いといいなあ」と感じていたところ、隣のお風呂屋さんが「尾畠さん、うちの土地、買わんね?」と声をかけてきたそうです。とても広い土地なので「ちょっと余裕ないから無理だわ」と言ったら「尾畠さんなら相場の半値でいいよ」と。
実は、他に何年も前からお風呂屋さんに「言い値でいいから売って」と頼む人がいたそうなのですが、そっちを断って、尾畠さんに「半値でいいから買って」というのです。
それからずいぶん経って、今度はその逆側の人も「うちの土地買ってくれんね?値段は尾畠さんが決めて。1円以上だったらいくらでもいいから」と言われました。
そこで地元の銀行から土地の相場を聞き、自分が払える最高値で買うことにしたそうです。
ここまでの話、どちらも買い叩くことはできたでしょうけど、隣近所のよしみがあるのは確かです。安く売ってくれた理由はわかりませんが、「安く買い叩こう」と思っているような人には声はかからないし縁もないと尾畠さんは言います。
さらに尾畠さんは、「いいことしてもズルいことしても、お天道様はちゃんと見ている」とも言い、いつも真摯でいることの尊さを説いていると感じます。
自分の人生を他人に委ねない
幼少のときより奉公に出されていた尾畠さんは、中学を出るころには、「自分の人生を他人に委ねない」と決めていました。魚屋をやると決めたのも、65歳で魚屋をやめると決めたのも自分です。
「誰かに道を決めてもらっていたら、いつまで経っても一人前ではないから」と言います。
それは、会社員でも同じことが言えます。その会社で働こうと決めたのは自分です。そのことを忘れて「会社が何もしてくれない」と文句を言う人が多いです。
「ひどい会社だな」とか「思っていたのと違う」と感じ、やめるのは自由ですが、何でも人や会社のせいにするのは、少し勝手だし、他人に自分の人生を委ねていた結果だといえますね。
そしてさらに尾畠さんは、「会社に入りさえすれば一生安泰なんて昔の話。もう大きいものに寄りかかっていれば安心というのは、通用する時代ではない」と手厳しい言葉で説きます。
人の話を聞いたら、自分の心に篩(ふるい)をかける
尾畠さんは、「日本人は生真面目。それがいいところでもある。でもそれが洗脳されやすいにつながるかもしれない。だから、戦争になると右向け右となってしまう」と言います。
確かにそうです。われわれは、一種の崇拝主義に乗せられやすく、洗脳されやすい体質なのかもしれません。
そこで尾畠さんは「みんながいいと言っても、自分の頭で本当にそれが正しいかを考えることは大事。人の意見や相手の話に耳を傾けたら、自分の心の中に持っている篩(ふるい)にかける」を信条にしているのです。
そのうえで、「今日は10個の話や意見を聞いたとして、自分が「必要なのはないな」と感じれば、全部、捨てる。それで、「いいな」と思ったのだけ心に残しておく」と言うのです。
良いたとえを残してくれました。それは「佐渡の砂金拾い。自分にとって金で、どれが砂なのか、誰かに決めてもらうのではなく自分の心で決める」ということです。
馬を見たら乗ってみろ、人に会ったら話してみろ
何事も経験や体験に勝るものはないという話です。
牧場で飼われている馬の中にも、大きいのや小さいの、気性の荒いものとそうではないものがいます。しかし、パッとその場で、その馬の性質までわかる人はいません。
馬と触れ合ったり、乗ってみることで、それがわかってくるのが大半です。
それと一緒で、人は見かけだけではわからないことがあり、接して、話してみないと、その人柄がわかりません。
つまり、「馬のよしあしを知るのと一緒で、人柄のよしあしも、接したり、話したり、触れ合わなければ、分からない。人間の表面だけを見て、食わず嫌いから人見知りしてはいけない。何事も自分で経験することが、一番大切である」ということです。
尾畠さんの処世術というものは、すべてこの「馬を見たら乗ってみろ、人に会ったら話してみろ」からの体験・経験の量が大きく影響していると感じます。
本当の人生の先生とは、このように自らの体験・経験から導いてくれる人の事をいうのだなと感じました。
『お天道様は見てる 尾畠春夫のことば』 の感想・まとめ


「人間の根本」を教えてくれる本
著者の白石あづささんは、3年に渡り尾畠春夫さんの密着取材をされました。
取材をする前の予備知識としてのイメージは、「戦前生まれで、若いときに大変な苦労をされたが、今は人助けにまい進。私利私欲にとらわれずに生きる人」といった感じでした。
ですが、それから幾度となく大分や被災地に飛び、同行取材させていただいているうちに「尾畠さんは悩んでいるすべての人の希望だなあ」と思うようになったそうです。
この記事では取り上げませんでしたが、尾畠さんは、わたしの郷里、四国霊場八十八カ所の巡礼にもお越しになったということです。
「今まで商売とはいえ、たくさんの魚を殺してきたから、その供養の旅なのだ」という説明ですが、ここで考えさせられるのは、「命ほど重いものはない」という尾畠さんの人生における姿勢であります。
著者が由布岳のボランティアに同行したときも、尾畠さんが見つけたマムシを素手で切り裂き袋に入れて持ち帰り食料にするという様を見て、どんな命も無駄にしない姿勢におどろき感心したのでした。
やはりそこで言えるのは、「人間の根本」として、「強くなければ生きていけない。やさしくなければ生きる資格がない」ということなのです。
そのような姿勢が、あの感動を呼ぶボランティア活動の原点であるとわたしは思います。
この記事の題名に「強運を呼ぶ」と書きましたが、そういうものは後からついてくるものです。
まずは自らが「自立」し、何事も一つ一つ真摯に向き合い、状況を好転させるためには常に考え、行動していけば、おのずと結果はついてくるとそう信じます。
そりゃ、あと何年か経てば、尾畠さんのことを知る人は、少なくなっていくでしょうけど、尾畠さんの言葉・姿勢は今だからこそ必要だと思います。
よろしければぜひこの本を手に取って読んでみてください。
尾畠さんが、「今日ある命は、明日もあるかはわからない。だからこそ、自分に正直に今を生きろ」と大分弁の飾らない言葉で励ましてくれますから。
『お天道様は見てる 尾畠春夫のことば』の概要


本書の目次
『お天道様は見てる 尾畠春夫のことば』
はじめに
序章 ルポ 奇妙な生活
第1章 ルポ 最後のイワシ(幼少期編)
第2章 ルポ 包丁と足袋(修行と独立編)
第3章 ルポ 抱き合って泣いた日(第二の人生編)
第4章 ルポ 奮闘500日(東日本大震災編)
第5章 ルポ 守り抜いた約束(2歳児救出編)
第6章 ルポ 土嚢とスコップ(広島・呉ボランティア編)
第7章 ルポ 眠れない日々(東海道大騒動編)
第8章 ルポ 愛しき由布岳(山岳ボランティア編)
終章 ルポ 母なる太陽
おわりに
著者の紹介
白石あづさ(しらいし・あづさ)
ライター&フォトグラファー。
日本大学藝術学部美術学科卒業後、地域誌の記者を経て、3年に渡る世界放浪後フリーに。
旅行誌や週刊誌を中心に執筆。
これまでに訪ねた国は100以上にのぼる。
主な著書
『世界が驚くニッポンのお坊さん 佐々井秀嶺、インドに笑う』文藝春秋 (2019/6/20)
『世界のへんな肉』新潮社 (2019/5/1)
『世界のへんなおじさん』小学館 (2008/5/31)


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