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『嫌われた監督』から学ぶ最強チームの作り方

コウカワシン

こんにちはコウカワシンです。

今回は鈴木忠平さんの著書『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』から学ばせていただきます。

著者の鈴木忠平さんは、元日刊スポーツのプロ野球「中日ドラゴンズ」の番記者だった人です。

落合氏が中日の監督に就任したときから、落合氏に寄り添うように取材を重ね、落合氏のもとで活躍した選手にスポットを当て、その選手たちに対し真摯に向き合い、それぞれを救い上げ、プロフェッショナルとしての自覚をもたせ育てていく姿を描いています。

そこから垣間見えるこれまでにない「リーダー像」を知ることができる本でもあります。

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目次

『嫌われた監督』は、誰におすすめか?

本書はこのような人におすすめです。

『嫌われた監督』がおすすめな人

  • 落合博満氏が好きな人
  • 中日ドラゴンズファン
  • リーダーの心得を知りたい人

『嫌われた監督』は、どんな本?

本書の目次

『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』

プロローグ 始まりの朝
2004 第1章 川崎憲次郎 スポットライト
2005 第2章 森野将彦 奪うか、奪われるか
2007 第3章 福留孝介 二つの涙
2007 第4章 宇野勝 ロマンか勝利か
2007 第5章 岡本真也 味方なき決断
2008 第6章 中田宗男 時代の逆風
2009 第7章 吉見一起 エースの条件
2010 第8章 和田一浩 逃げ場のない地獄
2011 第9章 小林正人 「2」というカード
2011 第10章 井手峻 グランド外の戦い
2011 第11章 トニ・ブランコ 真の渇望
2011 第12章 荒木雅博 内面に生まれたもの
エピローグ 清冽な青
あとがき

著者の紹介

鈴木忠平(すずき・ただひら)

1977年生まれ。千葉県出身。

名古屋外国語大学卒業。

日刊スポーツ新聞社でプロ野球担当記者を16年間経験した。
2016年に独立し、2019年までNumber編集部に所属。現在はフリーで活動している。

著書

清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実/文藝春秋 (2019/7/10)

他に取材・構成を担当した本に、覚せい剤取締法違反で執行猶予中の清原が自らを振り返った独白集『清原和博 告白』『薬物依存症』がある。

本書の内容

『嫌われた監督』はズバリ!「最強チームを作り率いる指揮官の心得」を書き記したノンフィクション作品です。

amazonの書籍紹介より

なぜ 語らないのか。
なぜ 俯いて歩くのか。
なぜ いつも独りなのか。
そしてなぜ 嫌われるのか――。

中日ドラゴンズで監督を務めた8年間、ペナントレースですべてAクラスに入り、日本シリーズには5度進出、2007年には日本一にも輝いた。

それでもなぜ、落合博満はフロントや野球ファン、マスコミから厳しい目線を浴び続けたのか。

秘密主義的な取材ルールを設け、マスコミには黙して語らず、そして日本シリーズで完全試合達成目前の投手を替える非情な采配……。

そこに込められた深謀遠慮に影響を受け、真のプロフェッショナルへと変貌を遂げていった12人の男たちの証言から、異端の名将の実像に迫る。

「週刊文春」連載時より大反響の傑作ノンフィクション、遂に書籍化!

コウカワシン

落合博満氏は、誰もが知る一流の元プロ野球選手であり、中日ドラゴンズを監督として2004年から2011年の8年間率いて、すべての年でAクラス入り、4度のリーグ優勝、1度の日本シリーズ優勝を達成されました。

監督在任期間には、物議をかもす行動でフロントや野球ファン、マスコミから厳しい視線を浴び続けましたが、実際に中日ドラゴンズは強化され常勝軍団と呼ばれるまでに変貌します。

その名将・落合博満氏から影響を受けた12人の人物からの証言も加味された、いわゆる「最強チームとは」を哲学的に学べる内容であるといえます。

『嫌われた監督』の要点は?

落合博満氏といったら「打撃の神様」のような存在で、現役時代は3度の三冠王に輝き、セ・パ両リーグで、本塁打王と打点王を獲得。優勝請負人と異名を取り、中日・巨人でリーグ優勝、1994年には日本一も経験します。

現役時代を「オレ流」という調整法で活躍した落合氏ですが、中日の監督に就任してからもオレ流を貫きます。監督就任早々、2月のキャンプインでいきなり紅白戦をやるなど、独自のチーム育成で強化に努めました。

外部に背を向け、ひたすらチームの内側を向き、「すべての選手にチャンスがある」と宣言。自分の眼で確かめていないからと就任当時の選手のすべてを戦力外にすることなく、補強もせず、現有戦力で一年目のシーズンを戦い、最初のリーグ優勝をします。

そんな落合監督の理想の野球とは「勝つ野球」。そのためには、野手よりも投手を集め、打てる者よりも守れる者をゲームに送り出すといった合理性の追求で勝利の確立を高めました。

落合氏は、「打つことは良くても三割だ。でも、守りは十割を目指せる。勝つためにはいかに点をやらないかだ」と言い、全選手に確実性を求めました。

大打者であった落合氏が監督の立場から「守りの野球」を目指したのです。それが同時に落合氏の野球が「つまらない」と言われる要因にもなりますが、多くを語らない落合氏は敵も増やしていくのです。

今でも語り草となっている1994年の日本シリーズ。日本一を決めた大一番で、完全試合目前の山井投手を交代させた件では「冷徹」といわれ悪者扱いまでされました。

実は山井投手から「交代をお願いします」と降板を願い出たのです。山井投手は試合途中から指の血豆が裂けていました。それでもプロですから、それを顔に出すことはありません。

しかし、日本一がかかった試合を自分が台無しにしたくないと思ったのでしょう。今の自分の状態を冷静に判断しだした答えだったということです。

そうした交代劇を知ってか知らずか外部は容赦ない非難を浴びせ、落合氏はそれを一身に受けたということなのです。

落合氏はかつて自分がそうだったように、中日の全選手に「プロフェッショナル」を求めていました。

派手なパフォーマンス、確実性のないバッティング、ヘッドスライディングなどを禁止したのも選手がケガをして試合に出られなくなるのを防ぐためです。

コウカワシン

このような異端のリーダーを理解するには、まずこれまでの歩みを知る必要があります。ということで、落合氏の略歴から入りたいと思います。

落合博満氏の略歴

落合博満氏は、1953年12月9日生まれで、秋田県男鹿市出身です。

プロ入り前

落合氏が野球を始めたのは小学4年生のころ。あこがれの選手は❝長嶋茂雄❞という落合氏は、中学一年からエースで四番打者でした。「選手をあまりいじらない」という評判の秋田県立秋田工業高校に進学します。

高校進学後、野球部に入部すると同時にレギュラー、そして四番打者となりましたが、もともと練習嫌いだったことと、上級生から毎日のように殴られるという体育会系の風習に嫌気がさし、練習にはほとんど顔を出さなくなっていきました。

学校自体にも顔を出さず、その代わりに映画館に足を運び、年100本は映画を観賞していたそうです。このため、出席日数が足りずに、高校3年間で2年ほどは留年の一歩手前だったそうです。

出席日数を稼ぐために学校に行くと、野球部員に見つかり、「次の日曜は試合だから」と、大会直前にはチームに呼び戻されていたそうです。こうした「練習サボり~大会前の復帰」という「入退部」を8回繰り返したということです。

高校卒業後は東洋大学に進学。野球部に入部するも、練習中に左大腿部の肉離れと足首の捻挫に見舞われ、そして野球部の古い体質にも直面し嫌気がさし野球部を退部、大学も中退しました。

大学中退後は郷里の秋田県に戻り、ボウリングに熱中。プロボウラーを志したこともありましたが、野球への熱意が再び高まり、1974年に東芝に入社。社会人野球の東芝府中に加入します。

東芝府中では2年目に四番打者に定着。1976年には都市対抗に出場します。都市対抗には3年連続で出場し、1978年には第25回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出されました。

1978年のドラフト会議でロッテ・オリオンズから3位指名を受け、契約金2700万円、年俸360万円で契約したということです。

プロ入り後(現役時代)

ロッテ時代

1979年、プロ入り当時の山内一弘監督からバッティングフォームの矯正を命じられるも自分に合わないと感じ、チームメイトの土肥健二氏や得津高宏氏のバッティングフォームを参考にし自身のバッティングを作り上げていきました。

1981年、6月末に四番打者に起用され、オールスターゲームに初出場。シーズンでも初めて規定打席に到達し、打率.326で首位打者のタイトルを獲得しました。

1982年、28歳で最初の三冠王を獲得。史上最年少記録でした。

1983年、3年連続首位打者を獲得します。

1984年、ロッテ・オリオンズ監督に稲尾和久氏が就任。

コウカワシン

この稲尾監督との関りが落合氏の野球人生に大きく影響しました。稲尾監督は、落合氏の他と一線を画した技術論から全体主義に背を向ける生き方まで、正義でも悪でもなく、そっくりそのままを受け入れた人なのです。

試合中のベンチではいつも稲尾監督の隣に座り、監督と選手というより、どう生きるかまで価値観を通わせた同志のようだったと言います。

1985年、二度目の三冠王を獲得。

1986年、2年連続で三度目の三冠王を獲得。稲尾監督は三年契約を終え、ロッテ監督を辞することになりました。去り際に「落合の三冠王が一番うれしかった」と言われそうです。

落合氏も「稲尾さんのいないロッテにいる必要はない」と発言。それが波紋を呼び、あの有名な「4対1トレード」へとつながります。牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手と交換トレードで、中日へのトレードが決定しました。

移籍先の中日では1億3千万円(推定)でサインし、プロ野球では日本人選手初の1億円プレーヤーとなりました。

中日時代

1987年、首位打者争いを繰り広げますが、首位と2厘差のリーグ3位。

1988年、本塁打・打点でリーグ2位。勝利打点・出塁率・長打率で、リーグ1位を記録しました。中日はこの年にリーグ優勝を決めます。日本シリーズでは1勝4敗で敗退しました。

1989年、打点王を獲得。両リーグで打点王は史上初です。

1990年、本塁打王と打点王を獲得。両リーグで本塁打王は史上初でした。最高出塁率も獲得。

1991年、本塁打王を獲得するも打率と打点でリーグ2位でした。

1993年、史上初の両リーグ200本塁打を達成。同年オフ、導入されたばかりのフリーエージェント制を行使してFA宣言後、巨人に移籍しました。

巨人時代

1994年~1996年の3年間、長嶋茂雄監督率いるチームの2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に、四番打者として貢献しました。1994年の日本シリーズで現役時代唯一の日本一を経験します。

1995年、首位打者争いを繰り広げるもリーグ4位となりました。この年に通算2000安打を達成します。ですが名球会入りを辞退されました。

1996年、史上7人目の通算500本塁打、史上7人目の通算1500打点を達成。オフに清原和博氏が巨人に入団することが決まり、同じポジションだったことから球団に自由契約を申し出ました。

理由は「子どものころからファンで敬愛する長嶋監督が、自分か清原かどちらかを起用することに悩む姿を見たくなかった」ということです。

日本ハム時代

1996年オフに、ヤクルトと日本ハムから獲得オファーがあり、条件面から日本ハムに移籍します。

1997年、6月に入るまでは打率3割を超え活躍するも、年齢的な衰えと疲労が重なり、怪我も相まって出番も徐々に減っていきました。

1998年、現役引退。

現役引退後

引退後は野球解説者として活動、1999年から2001年の間テレビ朝日野球解説者として「オレ流解説」を実施します。

2001年2月、横浜ベイスターズのキャンプで臨時打撃コーチを務めました。

中日ドラゴンズ監督

2004年、宣言通り就任初年度にしてリーグ優勝を達成します。日本シリーズでは先に3勝したものの3勝4敗で敗れ、日本一には届きませんでした。

コウカワシン

この年の開幕投手は3年間一軍登板のなかった川崎憲次郎。川崎は5失点で降板しますが逆転勝ちします。

エース川上憲伸を3戦目に先発させ3連敗のリスクを避けると同時に、川崎の開幕起用で「全選手横一線」と選手たちに刺激を与えること。FAで中日に加入しながらも一度も登板していない川崎に最後のチャンスを与えること。先発投手についての情報漏洩がないかを確かめることが目的だったと・・・物議をかもしたこの話はバッチリ本書で読むことができます。

2005年、主砲のタイロン・ウッズの殴打事件による出場停止や、交流戦における負け越しにより失速し、リーグ2位に終わります。

2006年、監督として2度目のリーグ優勝を達成。日本ハムとの日本シリーズでは1勝4敗で敗れまたも日本一にならず。 オフに球団と新たに2年契約を結びました。

2007年、リーグ2位で終わるも、セ・リーグではこの年から導入されたクライマックスシリーズで勝ち上がり日本シリーズに出場します。日本ハムに4勝1敗で日本一を奪取。これは中日球団として53年ぶり2度目の日本一でした。

さらにその後行われたアジアシリーズでも優勝。この功績から落合氏は「正力松太郎賞」を受賞します。

2008年はリーグ3位で終わります。監督就任5年目で順位・勝利数・勝率のいずれもワーストでした。主力の不振や衰え、移籍に加え、北京五輪に選手を派遣したことが響いたのです。オフに球団と新たに3年契約を結びます。

2009年はリーグ2位で終了。

2010年は監督として3度目のリーグ優勝。日本シリーズではパ・リーグ3位から勝ち上がってきたロッテに2勝4敗1分で敗れ、日本一にはなれませんでした。

2011年は熾烈な首位争いを制し監督として4度目のリーグ優勝を達成されます。日本シリーズでは福岡ソフトバンクホークスと対戦。 日本シリーズは3勝4敗で前年に続き日本一を逃しました。

この年 11月20日 、中日監督を退任。

落合氏が監督を務めた時期の中日は、8年間でリーグ優勝4回、日本シリーズ出場5回、日本一1回、Bクラス(4位以下)0回だった。歴代の中日監督では、最高の成績であります。

落合氏が嫌われた理由

秘密主義

落合氏は監督就任早々、チーム内外で改革を始めます。まずやったのがブルペンカメラの撤去です。ブルペンとは球場内の投球練習場のことで、試合中はリリーフ投手がそこで出番に備えます。

ゲーム中にどの投手がスタンバイしているかを知ることができるものですがそれを撤去させました。これは「選手の体調は機密情報」と落合氏は考えているからです。

中日の親会社がマスコミ出るにもかかわらず、チームの外では情報を遮断。星野監督のときとはまるっきり変わり、番記者を引き連れることも会合すらもなくしてしまったのです。

内部が見えなくなったことでチームが纏っていく緊張感と不気味さが、相手に腹のうちを読ませない落合氏のイメージに重なっていったのです。

このことは、内部の人間にも徹底させ、情報を外部に流した人物にはチームを去ってもらうことも敢行したのです。

冷徹

毎年、秋になると戦力外となり何人か去っていきますが、「入団3年目まではクビを切られることはない」という暗黙の了解があるそうです。ですが、落合氏に関しては、その限りにあらずなのだそうです。

選手を戦う駒として考え、それは二軍や一軍半の立場にいる選手たちを戦慄させたといいます。

監督就任してすぐにコーチたちに通達したことがあります。

「選手が訊いてくるまでは教えるな」
「選手とは食事に行くな」
「絶対に選手を殴るな」

落合氏は、かつて自分がそうであったように、自立したプロフェッショナルを求めていたということです。情に流されて選手を起用するなんていうことは絶対しなかったのです。

落合氏自身も年々、選手やコーチと境界線を鮮明にし、勝てば勝つほどつながりを断ち、信用するものを減らしていったのでした。

あの2007年の日本シリーズで、完全試合達成を目前にした山井投手を降板させたことに誰もが怒ったものですが、情に流されては勝負の世界に生きる者として失格ということがチームの中で浸透している証拠なのです。

実際、あのとき山井投手は指の血豆が割れ、チームが勝つにはどうしたらいいかを自分自身で判断して、降板を願い出たとのことです。

現実主義

「ランナーが出ると、バントの指示」

これは、高校野球ならよく見るセオリー通りの攻撃の仕方ですが、落合氏は決まってこのような指示を出したといいます。盗塁やヒットエンドランのようなリスクを伴なう作戦はほとんどないといって過言ではないとのことです。

このマニュアルのような攻撃はシーズンを重ねるごとに増え、「落合の野球はおもしろくない」と言わせる要因となったのです。

誰よりもバッティングを追求してきた落合氏が、これほど打撃の可能性を信用していないということなのです。

おまけにヘッドスライディングも禁止としました。なぜなら、ヘッドスライディングはケガをするリスクがあり、それで戦列から主力選手が離れてしまうのを防ぐためです。

周りから何と言われようと、派手なパフォーマンスを嫌いロマンを排除し、選手の体調維持にまで目を配る細やかさは、チーム全体を俯瞰して見て、確実性のみ残したということなのです。

落合語録

本書から落合氏の言葉でグッとくるものをチョイスしてみました。

「球団のため、監督のため、そんなことのために野球をやるな。

自分のために野球をやれ。勝敗の責任は俺が取る。お前らは自分の仕事の責任を取れ

監督に就任した直後に選手たちに向けて

スポーツは強いものが勝つんじゃない。勝ったものが強いんだ。

三年間で負けないチームはできたが・・・勝てるチームではなかったってことだ」

日本シリーズで、新庄剛志の笑顔とパフォーマンスに引っ張られた日本ハムに負けて

「でもな、負けてわかったよ。それまでどれだけ尽くしてきた選手でも、ある意味で切り捨てる非情さが必要だったんだ

2004年の日本シリーズで西武ライオンズに敗れた試合を思い出して

監督っていうのはな、選手もスタッフもその家族も、全員が乗っている船を目指す港に到着させなければならないんだ。

誰か一人のためにその船を沈めるわけにはいかないんだ。そう言えば、わかるだろ?」

2007年、日本シリーズで山井投手の完全試合目前での継投をふり返って

そもそも万人に認めてもらおうなんて思っていないよ

非情の指揮官という代名詞を背負うことについて

「なんで、みんな若い奴を使え、使えって言うんだろうな?

与えられた選手っていうのは弱いんだよ。何かにぶつかれば、すぐに潰れる。

ポジションというのは自分でつかみとるものだ

シーズン中、チームの主力がケガや故障で戦列を離れ、穴を埋める新しい力もない中、周りからの雑音に向けての発言

選手が判定に納得できないときは監督が抗議にいかなきゃならないんだ。

だって抗議権があるのは監督だけだろ。それで納得できれば引き下がるし、納得できなければ退場になったって引き下がらない。それだけだ。だから俺の退場は遅延行為だろ?遅延行為はルールブックに書いてある。

暴力、暴言はルールに書いていない。だから、やっちゃダメなんだ」

著者が監督の審判への抗議について尋ねたところ

「よくファンのために野球をやるっていう選手がいるだろう?

あれは建前だ。自分がクビになりそうだったら、そんなこと言えるか?

みんな突きつめれば自分のために、家族のために野球をやっているんだ。そうやって必死になって戦って勝つ姿を、お客さんは見て喜ぶんだ。

俺は建前は言わない。建前を言うのは政治家に任せておけばいいんだ」

著者が落合氏の生き方を象徴するとしてノートに書き残した言葉

いいか、俺たちは契約の世界に生きているんだ。やりたいとか、やりたくないじゃない。

契約すると言われればやるし、しませんと言われれば終わり。それだけなんだ。

だから、もし俺がやめるとしても、それは解任ではない。契約満了だ」

契約というのは、それだけ重いんだ。

オーナーと交わした契約書は家に大事にとってある。

俺がやるべきことはすべてそこに書いてある。

このチームを優勝させることってな」

著者が去就を尋ねて

俺たちは、お前の力をわかった上で契約しているんだ

日本の野球になじめず悩んでいるトニ・ブランコ選手に対して

「心は技術で補える。心が弱いのは、技術が足りないからだ」

ショートへのコンバートに不安が消えない荒木雅博選手に対して
コウカワシン

どの言葉も野球の世界だけにとどまらず、人生においても大事なことを語っていると思うのです。

落合氏の言葉をなれ合いではなく、はったりもない真っ正直な人間の言葉だと感じることができれば、落合氏の魅力が倍増化する気がしますよね。

『嫌われた監督』の感想・まとめ

読めば読むほど「落合博満」のすごさがわかる本

わたしが落合氏を知ったのはテレビのバラエティ番組に夫人の信子氏と出演されていたのを見てからです。それまでは今ほどプロ野球に関心がなく、落合氏が3度も三冠王を取ったことよりも年俸の高い「自由な人」というイメージしかありませんでした。

中日ドラゴンズに移籍後も「オレ流」と呼ばれる調整法で、他の選手とは別メニュー。全体主義の星野監督と折り合いが悪くなり、巨人、日本ハムと渡り歩き現役を引退したころはもう「過去の人」とまで思っていました。

ですが、中日監督に就任するやいなや落合節を轟かせ、セ・リーグの台風の目となり、そのままリーグ優勝をかっさらった時にはさすがに度肝を抜かれました。

わたし自身が落合氏に偏見を持っていたこともあり、「こんなことは二度、三度はない。落合さんもじきに辞めるんちゃうかなあ」なんて思っていました。

ですがどうでしょう。メキメキ強くなっていき常勝軍団化した中日ドラゴンズを見るたびにどのような秘密が落合氏にあるのかなあと不思議な気持ちになりました。

まあ、あれから時は流れて、今この『嫌われた監督』を読み、すべての面で納得がいきました。

落合氏は外部にはそっけない態度で勝手な持論を発言しているように見えますが、実際はそんなことはないとわかりました。すべてが計算ずくであり「チームを強くすため」ならあえて憎まれ口を言う人なのです。

落合氏の「野球は面白くない」とされ、集客を増やしたい球団幹部、星野監督のころのような派手なイメージのない野球に物足りなさを感じる中日ファン、秘密主義で多くを語らないことでやきもきするマスコミなどから嫌われてしまったということです。

本書の中で、12人の選手や関係者の談話もあり、それぞれの落合像があるわけですが、どの人も落合氏を悪く言う人はいないのです。つまり選手や関係者は落合氏に一定の信頼を置いていたということです。

どの人も「チーム強化すること」でつながり、プロフェッショナルとしてなすべきことを落合氏から学んだ愛弟子たちであり、そこにはなれ合いの人間関係は存在しないのです。

わたしからみたら、「頼もしい上司」「厳しい上司」「クールな上司」「温情ある上司」、そして「自分の進むべき道を教えてくれる上司」がミックスした現代的なリーダー像に落合氏が写ります。

本書を読んでいて気になったのですが、「落合氏が安らげる場所はどこだろう?やはり家庭なのかなあ?」と、読んでいて推理するのも楽しい本に思えてなりません。

いやあ、本当に面白いし、泣けるし、ためになる本です。ぜひ読んでみてほしいですね。

コウカワシン

最後までお読みいただきありがとうございます。

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この記事を書いた人

四国在住。
ミニマリスト。趣味は映画観賞と音楽鑑賞、読書、野球観戦。
映画は特に好き嫌いなくほとんどのジャンルーを観ます。音楽はジャズとクラシックが大好きです。読書は歴史書が好きでよく読みます。

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