
こんにちはコウカワシンです。
今回は、平井一夫(ひらい・かずお)さんの著書『ソニー再生』から学ばせていただきます。
『ソニー再生』はどんな本?


『ソニー再生』は、ソニーの3度の危機に立ち向かい変革し立ち直らせた平井一夫さんのサクセスストーリーとリーダーとしての姿勢を語った内容となっています。
本書はこのような本
本書の著者・平井一夫(ひらい・かずお)さんは、元ソニー社長兼CEOで、現在ソニーグループ・シニアアドバイザーです。
ソニーの経営危機を救った立役者と称えられている方です。
実はかつて世界にその名をとどろかせたソニーは、未曽有の危機に見舞われていました。
2012年3月期、5000億円を超える大赤字の中でソニー社長の重責を引き受けた平井さんは、「ソニー再生」という難題に挑み、3度のターンアラウンドに成功しました。
「変革のプロフェッショナル」が語る「リーダー像」はいったい何なのか?
多くのビジネスパーソンに対し一石を投じる一冊です。
本書は誰におすすめか?
本書はこのような人におすすめです。
『ソニー再生』はこのような人におすすめ
- リーダー
- ピンチに強くなりたい人
- ソニー復活に興味ある人
『ソニー再生』の要点は?


自分を「異端のリーダー」と称する平井一夫さんとは、いったいどのような人なのでしょうか?
それには、幼少のころから身についた「異邦人」感覚とソニーグループの本流ではない自分がソニートップにまで登りつめた経緯、そして本来ならトップ自らがやらないことをやるという、平井さんのポリシーが大きく関係しています。



そのなかでわたし自身が興味を持ったことを独断と偏見であげさせていただきます。
異端のリーダー平井一夫の誕生まで
まず、平井さんの経歴をおさらいします。
CBSソニー(現ソニー・ミュージック)入社
⇓
ソニー・コンピュータエンターテインメント・アメリカ社長
⇓
ソニー・コンピュータエンターテインメント社長
⇓
ソニー・グループ社長
平井さんは、本流のエレクトロニクス部門出身ではなく、ソニーの本体からは辺境ともいえるソニーミュージック出身の方です。紆余曲折ありながら、必要に求められソニーの中枢へと昇りつめられた方と感じました。
これを語るには、子ども時代からさかのぼらないといけないと思い、簡単でありますが略歴を追いたいと思います。
父親の転勤で外国と日本を行ったり来たりの子ども時代
平井一夫さんは1960年東京都生まれ。銀行員の父親の転勤で小学1年生のころ、アメリカのニューヨークに移り住まわれました。そして4年生のときに日本戻ってくることになりました。
この間のアメリカでの学校生活に慣れていたため日本の学校にはなかなか馴染めず、心の余裕が持てずに悩んだそうです。その後、中学生になるときにまた父親の転勤でカナダに移住、そして2年後に日本に戻るといった境遇にあったのです。
たしかに日本と外国の学校の違いはありますが、日本の学校教育に疑問を持った平井さんは、アメリカンスクール・イン・ジャパン(ASIJ)に入ります。そこでようやく自分の居場所が見つかったということです。
その後、ご家族は転勤でまた外国に行かれましたが、ご自身は親せきなどを頼り日本に残って、ASIJに通いました。途中、父親の赴任先であるサンフランシスコの高校に通うも高3のとき単身で日本に戻りASIJに復学します。
大学は国際基督教大学(ICU)を選ばれ、「自分は日本人である」という自覚を持ち、日本に根ざして生きていこうと思われたのです。
就職先は「CBSソニー(現ソニー・ミュージック)」
就活では、2つの会社どちらにするか悩まれたそうです。その会社とは「日産」と「CBSソニー」。悩んだあげく父親に相談すると「車は一人で何台も持たなくなる、これからはソフトウェアーの時代だ。音楽もソフトだ。ソフトには無限大の可能性があるぞ」と助言され、「CBSソニー」に入社されました。
平井さんが入社した1984年ごろは、ソニーといったらすでに世界的なブランドに駆け上がっていて、トリニトロンカラーテレビとウォークマンの名声は揺るがないものでした。
平井さんとしては、入社したCBSソニーに「ソニー」の名は入っているものの、まるで別世界、つまり「自分はソニーにあって辺境である」と感じていたということです。
ニューヨークへ転勤
CBSソニーでは、華やかな音楽の世界に身を置く楽しさを味わいつつも、仕事とプライベートはハッキリと線を引き生活を謳歌していた平井さんに1994年にニューヨークへの転勤が言い渡されました。
それまでもニューヨークへは、出張で何度も行ってはいるが、今度は転勤で常駐ということでご家族で悩まれました。それというのも平井さん自身が転勤族の疲弊から解放された帰国子女であり、奥様も同じ境遇の方だったからです。
それでも会社の方針には逆らえません。一家で移住となりました。このとき平井さんの肩書はCBSソニーの係長でしたが、転勤に伴いゼネラルマネージャー(GM)となりました。
プレイステーションを手伝う
初めは気乗りしなかったニューヨーク生活も慣れて軌道に乗ってきたころ、「プレイステーションをアメリカで売る」というお手伝いをすることになりました。CBSソニーとは畑が違うのですが、大先輩の丸山茂雄さんの頼みとあったら断れません。
プレイステーションは、1994年に日本で売り出したゲーム機で、おおかたの予想をはるかに上回る好調な出足で、勢いに乗って北米でも売ろうということになっていたのでした。
「まあ、いいか」という気持ちで引き受けたもののこれが、会社員生活で最大のターニング・ポイントになるとは、このときでは思いもよらなかったと言われています。
CBSソニーから出向という形で、ソニーコンピュータエンターテインメント・アメリカ(SCEA)があるサンフランシスコの近くのフォスターシティに通うことになりました。
最初はゲームに興味がなかったものの、それでは手伝いとはいえ業務に支障が出るので「リッジレーサー」なるゲームをやってみることにしました。
「ええっ!こんなことが家でできてしまうのか?」
ゲームの出来具合に衝撃を受け、日本から輸出するソフトウェア、もう少し広い意味で日本から輸出する文化に位置付けゲームビジネスは大化けすると気づかされたそうです。
もちろん日本での人気がそのままアメリカでも広がり、軽い気持ちで手伝うことになったゲームがこれほどの熱狂をもってアメリカで受け入れられている・・・ゲームの可能性は無限大だと感じました。
バラバラのSCEA
平井さんが手伝いで入ったSCEAは、プレイステーションのビジネスを軌道に乗せるには、なかなかに問題が山積だったそうです。これにはソニーコンピュータエンターテインメント(SEC)東京本社も手を焼いたそうです。
東京本社のいうことを聞かないSCEA社長はプレイステーションのアメリカ販売前に退任、ソニー・アメリカ社長も退任、SCEA社長を引き継いだ人物は責任のあまりノイローゼになったりとかで、結局手伝いのつもりがソニー・ミュージック(旧CBSソニー)に戻れなくなったのです。
SCEA経営に携わる
しばらくの間、SCEAの会長として東京とサンフランシスコを丸山茂雄さんが通って来ていましたが、やはり無理があります。そのころのSCEAはソニーグループの中でも重要な会社になっていたので基盤を整えるのが急務だったのです。
そこで、平井さんに白羽の矢が当たりました。「自分はソニー・ミュージックの人間で、東京ではまだ係長、こちらでは一応GMを名乗っているが、こんな人間が社長になったところで誰もついてこない」とかなり抵抗しました。
でも丸山さんは、引きさがりません。そこで社長という肩書ではなくEVP兼COO、つまり社長は不在で「実務の責任者」として引き受けることになったのです。
1998年ごろにはSCEが記録的な利益を計上し決算発表では1365億円の営業利益をたたき出しました。これに対しSCEAも貢献し、このときようやくSCEの正式会員になれた気がしたと言われています。
ソニーコンピュータエンターテインメント・アメリカ(SCEA)社長に就任
1999年、ついに平井さんはSCEAの社長に就任します。
SCEAのマネジメント体制を整え、バラバラだった組織をまとめ、プレイステーションが記録的な利益を出し、成果を上げてきたことが後押ししたのはもちろんですが、ソニー・ミュージック所属のままでは社員に対し示しがつかないというのも本当のところです。
社員の「もし失敗したら我々はクビになるけど平井さんは、出向元に戻るだけでしょ?」と思われてはいけない、自分も退路を断つ覚悟だということを見せなくては誰もついてこないと考えられたのだと思います。
転籍したということになりますが、別に何もかもが変わったということではありません。昨日までと同じように仕事に取り組む・・・それだけです。
プレイステーションはプレイステイション2となり、またまた売り上げを伸ばしてまいりました。経営者としては順調満帆、操縦士がいなくても安全に空を飛ぶ飛行機化としていたのです。
しかしソニーが、時代の流れの渦に巻き込まれようとしていたのです。それがエレクトロニクス部門の低迷と「プレイステーション3」です。
エレクトロニクス部門は、ライバルとしてアップルやサムスン、LGの台頭がありました。プレイステーション3は、プレイステーションの生みの親である久夛良木健(くたらぎけん)さんが心血を注いで作り出した最高傑作として売り出そうとしました。
そのスペックたるや凄まじく、「家庭のスーパーコンピューター」とも取れるようなものでした。2006年に販売する予定で価格を6万2790円 (ハードディスク容量20ギガのモデル) にすると公表したのです。
これにはさすがに「ゲーム機としては高すぎる」と批判の声を多く受けましたが、プレイステーション3はゲーム機でもパソコンでもない、家庭用のスーパーコンピューターだと主張しました。
たしかに当時としては革新的な技術を注ぎ込んだもののプレイステーション2と比べて2万円以上も高く、なかなか批判の声がやみません。
そこで、値下げを発表しました。1台4万9980円と設定しましたが、これにつき、1台売るごとに赤字が積み重なることになったのです。
当時のSCE社長である久夛良木健さんは辞任を表明、後任は・・・平井さんです。
ソニーコンピュータエンターテインメント(SCE)社長に就任
2006年に平井さんがソニーコンピュータエンターテインメントの社長に就任します。
プレイステーション3で出た負債を取り戻すための努力が始まります。前任者の久夛良木さんからプレイステーションによる「映画や音楽まで扱えるプラットホーム」としてのロードマップは渡されたものの今やるべきはプレイステーション3の立て直しです。
もちろんソニーの幹部からは「ソニーを潰す気か」との電話もあったりしました。それまでソニーの屋台骨を支えたSCEがプレイステーション3での立ち上げに失敗した傷は大きく2300億円の赤字となっていたのです。
液晶テレビ「ブラビア」が、販売好調とはいえエレクトロニクス部門の回復はまだ遠く、ここでゲーム事業が坂道を転げ落ちてしまってはソニーの屋台骨を揺らぎかねなかったのです。
そこで、いちど原点に立ち戻ることにしました。まず初めに始めたのが「プレイステーション3」に対して社員がどのように思っているかの聞き取りです。
「いま、プレイステーション3には何が求められているのか」
「SCEが目指すべき成功の形は何か」
「それを達成するためには、どんな問題が存在し、どう対処すべきなのか」
このようにして出た答えは「プレイステーション3はゲーム機だ」ということです。
本来のゲーム機としてユーザーに受け入れてもらうために大幅にコストダウンしていきます。これがまた困難でした。それでも取り組まないと前にすすめません。検討に検討を重ねた結果2万9980円にまで引き下げることに成功しました。
2009年、発売から3年経った時点でプレイステーション3の計出荷台数は2370万台、最終的には8740万台以上を何とか達成し2010年にはついに逆ザヤを解消したのでした。
平井さんとエンジニアたちの努力の賜物ですね。実際にエンジニアクラスの会議でも他の会議でも必ず平井さんは参加しコストダウンについて検討されたそうです。マネジメントだけでない真摯な姿に平井さんのリーダーとしての姿勢が伝わります。
四銃士
2009年、リーマンショックのころ、ソニー本社では組織の再編があり、社長のハワード・ストリンガー氏の後継となる時期CEO候補4人の中の一人に平井さんが選ばれました。マスコミではこの4人を「ソニーの四銃士」と称したのです。
肩書は、SCEの社長兼ソニーのエグゼンティブ・バイス・プレジデント(EVP)です。ここから、大元のソニーの経営にまで重きを置かなければいけなくなったということです。
でも平井さんは、ソニーの次期トップ候補に特別な意識はなく、まだまだプレイステーション3の立て直しに奔走していたというのが正直なところでした。
ところが、2011年になると置かれた立場が急速に変化。東日本大震災の前日にSCE社長兼任でソニーの副社長に就くことが決まりソニー本体のことも放っておくことができなくなったのです。
でも救いは、そのころにプレイステーション3の逆ザヤ問題が解消していたことです。このころには時期後継機プレイステーション4の2年後の発売に向けて、着々と開発を進めていました。
ソニー副社長としては、これがまた激務となりました。やはりソニーですから、一般消費者向けのサービスや全般を見なければいけません。
エレクトロニクス部門の再建に門外漢の自分が当たる難しさや東北のソニー工場や開発拠点が地震で被災してからの復興、そしてアメリカで起きたサイバーアタックによる情報流出に対しての後始末及び現状報告と今後の対応についての記者会見・・・。
未曽有の危機というのはこういうことをいうのですね・・・。
ソニーの社長に
東日本大震災から始まった嵐のような1年が過ぎた2012年にとうとうソニー本社の社長に就任しました。当初は「四銃士」の1人としてエレクトロニクスの本流ではない自分が社長になることはないと思われていましたが、ストリンガー氏からの打診で受けることになったのです。
すべてはソニーの再建のため。このときソニーは約5000億円の赤字が計上されていました。周りからは「よく引き受けるよな」「平井は何を考えているのか」という声がありソニーの深刻さを物語るものでした。
平井さん自身も副社長としての1年間、エレクトロニクスを担当してみて率直に思ったのは「このままじゃダメだ」ということでした。ですが、社長就任を断るという選択肢はなかったそうです。
ソニー全体の社員は16万2700人。あまりにも大きい規模です。会社全体が自信を無くしているにも見えましたが、副社長としての1年、「これでいいや」とは誰も思っていないことを目にしてきたからです。
アメリカでプレイステーションを売り、プレイステーション3のつまづきを立て直した平井さんの情熱が突き動かされ、4年連続赤字の会社を立て直す原動力にもなったのです。
厳しい船出
「ソニーの将来のためには、避けて通れない、多くの痛みを伴う選択や判断、実行を要する場面に直面することになる」と社長就任の記者会見で断言した平井さんは、猶予ならない改革に着手します。
「ソニーの強みは何だ?」、「この会社は何のためにあるのか?」、平井さんらしい足を使って社員の声に耳を傾け、この会社を絶対に再び輝かせてみせるという決意をすることから始められました。
それは日本国内だけではなく、世界中のソニーの拠点に出向き、昼はタウンホールミーティング、夜はパーティーを開いてお酒などを飲みながら平井さんが社員に質問をぶつけるといった具合が半年ほど続きました。
そこで確信を得たのが「ソニーはこんなものじゃないはずだ」というエネルギーと、「今のソニーは方向性を失っている」という事実でした。
つまりは平井さんが「ソニーの方向性を決めなくてはいけない」ということと、「成し遂げなければソニーがひとつになれない」ということでした。
そこで平井さんはソニーの原点に立ち戻ろうと「会社設立の目的」を読み返したのです。そこには「真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由闊達(じゆうかったつ)ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」とありました。
平井さんは、これがソニーの旗印であると確信したのです。
「KANDO」に託した思い
たしかにソニーの旗印は、 「真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由闊達(じゆうかったつ)ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」 ですが、これをそのまま社員に向けて発信しても響くことはないと考えた平井さんは「感動」という言葉で伝えることにしました。
「感動」・・・これこそが今のソニーが目指すところなのだということです。
ソニーという会社は、昔からワクワクするような製品を世に出してきました。平井さん自身も子どものころ、持ち運び可能な5インチ型テレビやラジオなどを所有し、当時の宝物として回想されています。
わたしも中学に入ったとき、ソニーのラジカセを買ってもらい、高校時代はお年玉で手に入れたウォークマンをいつも肌身離さず持ち歩いていた記憶があります。CDが出だしたころに出たディスクマンも欲しかったですね。
あのころもソニーが発売する製品にワクワクし「感動」したのを思い出します。
平井さんは、また世界を回り、「ソニーが目指すのはKANDO。お客様に感動を与える製品やサービスをみんなで創り出そう」と伝えました。
痛みを伴う改革
テレビ事業再生
「KANDO」を目指してソニーを一つにする。それには痛みを伴う改革はどうしても避けられない道でした。経営方針で「中小型ディスプレイやケミカルプロダクツの売却」「テレビ事業での固定費削減」などの大規模な構造改革は打ち出していましたが、これからがテコ入れの本番です。
まず平井さんは、アメリカニューヨークのソニー・アメリカの本社ビルを売却しました。つまりはアメリカで成功したソニーの象徴を手放すということです。これにより聖域なき改革を実行すると宣言したのです。
テレビ事業の再建も待ったなしでした。赤字の温床であるテレビは手放さなかったのです。テレビはソニーの看板商品ですがいつの間にか「ダメになったソニー」の象徴となり「テレビは売却しないのか」とよく聞かれましたがその考えはなく、復活できると確信していたのです。
そこで、ダメになった原因を探り、抜本的にやり方を変えました。それが「量から質への転換」です。つまりは量販する経営からの脱却ということです。
量を売るには必ず価格競争があります。ライバルにはサムスンやLG、そして中国勢も台頭してきていました。つまりはこれらのライバルと熾烈な競争をすることになります。これが赤字の元凶なのです。
そこで打ち出したのが「量から質」です。このことで行ったことが次のことです。
- 販売ルートを絞り、販売会社を集約した
- テレビの質向上(画・音を徹底的に磨く)
販売ルートを絞ることにはたいへんな反発がありました。つまりは昨日までのパートナーを切るということですから、尋常ではないのです。販売会社のほとんどはテレビだけではなくデジカメやビデオカメラなどのソニー製品も扱っていることから社内でも反発があります。
「この商売はまず台数を売ることから始まるんだ。平井はエレクトロニクスのビジネスがわかっていない」との批判が聞こえてくるようになりましたが、負の連鎖を断ち切るために断行しました。
こういう批判を浴びながらも「テレビは必ず再生できる」と考え、自ら飛び込んだ価格競争の勝負から一線を画してライバルとの差異化を進めれば、必ず光明が見えてくるはずだという目算があったのです。
そして「質」の部分である❝ガオン❞(画・音)を徹底的に磨くことにしたのです。この成果が見えてきたのが2015年ごろで、4K対応の高画質プロセッサー「X1」を搭載し、初めてハイレゾ音源に対応する製品を投入してからです。
テレビ事業が悲願の黒字化を達成したのが2014年度。実に11期ぶりのことでした。
苦渋の事業売却
テレビ事業の分社化・立て直しの他にやったことで衝撃だったのが「VAIO」のパソコン事業の売却です。これも事業の存続に向けて検討したものの残念ながら存続はできないと判断されたのです。
理由は、OS(基本ソフト)と半導体というパソコンの性能を決める二大要素が他社からの調達に頼っているということで、テレビのような差別化が難しいからでした。
つまり、パソコン事業に関わる人たちの雇用をできないということになり、たいへんに心苦しい思いをされたそうです。ですので売却先の日本産業パートナーズには、社員の処遇を約束してもらうことを前提条件に交渉されたそうです。
映画ビジネスにも
ソニーピクチャーズは、1989年にコロンビア・ピクチャーズ・エンターテインメントを買収したことが原点にありますが、膨大な映像メディアはブルーレイやDVDとなってソニーの収益源になっていた時期もありました。
しかし、時代はインターネットによる映像配信が主流になってきました。するとブルーレイやDVDの売り上げはみるみると落ち始めます。
この時、初めてコロンビアを買収した時点の営業権価値を見直してみると1121億円の減損処理を迫られることになりました。そこでネットフリックスとパートナーを組みコンテンツ提供をすることにしたのです。
全事業分社
ここまでの事業改革・構造改革の仕上げが全事業分社化です。
これは、会社全体としての規律を働かせるだけでなく、個別の事業についても透明性を高めるためで、もうすでにテレビ事業は分社化していましたが、これ全社に広げることにされたのです。
テレビならテレビ、ビデオ&サウンドならビデオ&サウンドに特化し身軽にするというのが狙いなのです。そして、会社全体として、一律に売上高と利益の増大を目指すべきではないということなのです。
そこで、全事業を3つのグループに分けました。
- 「成長牽引(けんいん)領域」(デバイス、ゲーム、映画、音楽)
- 「安定収益領域」(デジタルカメラ、ビデオ&サウンド事業)
- 「事業変動リスクコントロール領域」(テレビ、モバイル)
事業ごとに分社してそれぞれに異なる財務目標を課す。そのことで本社とは離れて各事業が自分たちの責任で、それぞれが経営目標を持ち、それぞれの経営指標をもとにそれぞれのアプローチで成長をはかるというものです。
平井イズムにより最高益
平井さんがソニーのかじ取りを託されたときには、ソニーは4年連続の赤字に苦しみ、エレクトロニクスの中核であるテレビはその時点で8年連続の赤字を計上していました。
ソニー全体で、最大5000億円の赤字を出し、経営の立て直しが急務なころに平井さんにその役が回ってきたのです。普通なら誰もがやりたがらないことを平井さんは自分のやり方で改革していきました。
2018年4月に行われた2017年度決算報告で、なんと7348億円の連結営業利益を出しました。それは1997年度いらい、20年ぶりに最高益を更新したのです。
社長に就任して6年・・・このような日が来るとは平井さんをはじめ誰も予想しなかったことでしょう。ここに「異端のリーダー」平井一夫の集大成があったといえるのです。
3度の危機を乗り切る姿勢
経歴から平井さんが対処した3度の危機は
- バラバラのソニーコンピュータエンターテインメント・アメリカをまとめる
- プレイステーション3で出た赤字の解消
- ソニー本体の赤字の解消・立て直し
です。
この3度の危機を平井さんはどのような姿勢で臨んだのでしょうか?
まず挙げられるのが、
- 社員との信頼関係の構築
- 異見を求める
- 厳しい判断を自分が引き受け、自らやる
ということです。
リーダーとしての役割に「目指す方向にプロジェクトを進める」ということにあるとされ、リーダーとして必要な資質に「方向性を決めて責任を取ること」と自らの考えのもとに責任がかかることを自覚されたうえで覚悟した姿勢ということです。
社員との信頼関係の構築
平井さんは平素から社員との信頼関係を築くため、社長になった6年間でも世界中の拠点を回り、タウンホールミーティングやその後のQ&Aセッションで社員と語らってきました。
日本でもソニー国内最大の厚木テクノロジーセンターに何度も足を運びエンジニアたちと交流する姿が本書でも語られています。
そこには❝社長❞という肩書を脱ぎ去った平井さんの姿勢が垣間見えますね。
異見を求める
平井さんは、アップルのスティーブ・ジョブズ氏やプレイステーションの生みの親である久夛良木健氏のような❝技術者兼創成者❞のような経営者ではありません。
たしかにもともとがソニー本流のエレクトロニクス部門ではなく、自身が辺境というソニーミュージック出身で、「危機を乗り越える」これをターンアラウンドといいますが、そのスペシャリストとしての能力を買われたのだと自覚があるからです。
何を止め、何を生かし育てればこの会社は立ち直るか・・・考えに考え、奔走することは大事ですが、これだけでは会社は立ち直りません。
「私はカリスマではないし、私一人では何もできない」
この言葉の意味には「絶対に信頼を置けるチームが不可欠で、異なるバックグランドで互いに違う強みを持つプロの集団を作るべきだ」という信念が見て取れます。
「異見を求める」の根底にあるのは、常に新しい見解を取り入れていかなくては順応できないし、その方が必ず目に見える世界が少しでも広がるという経験をし自分が成長したと実感できるからということです。
この「異見を求める」で、平井さんが心がけたこととして、
- リーダーは聞き役に徹する
- 期限を区切る
- リーダーが方向性を決め、責任を持つことをストレートに伝える
をされました。
自分の考えと違う意見にはついつい反発したり聞く耳を持たなかったりしがちですが、それでは建設的な答えは出ませんよね。リーダーというものはまず聞き役に徹し、その上で方向性を決めることが大事だと感じました。
厳しい判断を自分が引き受け、自らやる
「つらい仕事こそリーダーがやる」
リストラする社員に対しても直接会って自身が説明し伝えるという、つらい役を引き受けていました。なぜ自らがその役を引き受けたかというと、リーダーが自ら責任を取り「汚れ役」をやらないと社員たちの信頼を得られないからです。
日頃から社員との信頼関係に気を配ってきた平井さんですが、3度の危機においても自らが出向き、社員の声を吸い上げてまとめ、結論を出してきました。
それにより痛みのある改革を断行しなければいけませんでした。
当時ソニーの主力商品であったパソコンの「VAIO」を切ったときのこと、厚木テクノロジーセンターの夏祭りのヒトコマですが、社員から「平井さん、いっしょに写真撮ってもらっていいですか」と声をかけられ、写真を撮った後「今日で辞めなきゃいけないんで」と告げられます。
リストラを決めた当事者に記念写真を求めるという社員の心境をうかがい知ることはできませんが、日頃からの信頼関係や「汚れ役」もいとわない平井さんの姿勢が社員の心に深く残っていることはたしかだと思います。
『ソニー再生』の感想・まとめ


「運命のいたずら」は喜んで受け入れよう!
このような言い方をすると平井さんには大変失礼だと思いますが、「運命のいたずら」が平井さんを光り輝かせたとしか思えないのです。
幼少期のお父様の転勤による日本と海外を行ったり来たりの生活は楽しいことばかりではなく、理不尽な目に遭いつらかったことも多かったでしょう。でも、その感覚が異端という自覚を持ちながらも事態を真摯に受け止める土壌になったと感じます。
ソニーコンピュータエンターテインメント・アメリカにおいてもまとめ役として機能し、プレイステーション3の不振に対しても平井さんらしい調整能力で乗り越えられました。
これは言うに及ばずソニー本体の立て直しにおいても望まれての社長就任だったと感じます。
平井さんは、リーダーに求められる資質として「EQ(心の知能指数)の高さ」をあげられています。たしかに戦術や戦略は大事ですがそれだけでは組織はよみがえりません。
リーダーが求められるEQの高さとは、「自分の感情をコントロールし、状況に合った振る舞いができる」という能力の高さです。EQの高い人というのは、自分の情動を抑制し、他人の気持ちをくみ取り「物事が成功」するように動けます。
まさに平井さんの行われた改革には「EQの高さ」を感じ取る部分が多いです。
「自分は本流ではない、だけど自分にもできることはある。それを、真摯に勤め上げる。」
「ソニー」の復活にはこのような裏話があったということです。共感する部分は満載だと思える本です。よろしければぜひご一読ください。
『ソニー再生』の概要


本書の目次
『ソニー再生 変革を成し遂げた「異端のリーダーシップ」』
はじめに
プロローグ 約束
34年前の記憶
3度の経営再建
「このままじゃ、潰れる」
第1章 異邦人
一家でニューヨークに
「異」なるもの
10セントのハンバーガー
日本の学校への疑問
逃げ道
日本で生きる
父の助言
CBS・ソニー
ニューヨークに戻ってしまう
第2章 プレイステーションとの出会い
久保田利伸さんの執念
「プレイステーションを手伝って」
丸山さんと久夛良木さん
リッジレーサーの衝撃
バラバラのSCEA
35歳で経営再建に着手
泣き出す社員
つらい仕事こそリーダーがやる
相棒
クリエイター」・ファースト
量は追わない
成長した「子供バンド
第3章 「ソニーを潰す気か!」
退路を断つ
オートパイロット
ソニーの苦境
新たなライバル
鬼才・久夛良木健
Cellの野望
目の前にある危機
SCEへの逆襲
原点に立ち戻る
臨場感が危機感を生む
1.8キロの執念
理想と現実のはざまで
第4章 嵐の中で
四銃士
オートパイロット再び
サイバーアタック
「会社が終わる」
ソニーの社長に
厳しい船出
「愉快ナル理想工場」
「KANDO」に託した思い
「雲の上の人」では伝わらない
カリスマではなく
肩書で仕事をするな
トヨタの教え
エンジニア魂に火をつけろ
ソニーは再び輝く
第5章 痛みを伴う改革
「550Madison」売却の狙い
テレビ事業の再建へ
反発を押し切る
アップルから学ぶこと
「異見」を求む
スカウト
「イエスマンにはなりません」
主張は食い違ってこそ
異見を求める心がけ
苦渋の事業売却
ノスタルジーとの決別
第6章 新たな息吹
映画ビジネスの構造変化
「東京をお任せする」
ソニーのDNA
全事業分社の狙い
未完のモバイル改革
「次の芽」を育ててこそ
TS事業準備室
シード・アクセラレーション
社長が関与せよ
もうひとつの狙い
アイボ復活
アイボからEVへ
エピローグ 卒業
「120%でアクセルを踏めるか」
「危機モード」のリーダー
ソニーは新たな時代へ
次の夢
おわりに
著者の紹介
平井一夫(ひらい・かずお)
1960年 東京都生まれ。
父の転勤でニューヨーク、カナダなど海外生活を送る。
1984年 国際基督教大学(ICU)卒業後、CBS・ソニー入社。
ソニーミュージックNYオフィス、ソニーコンピュータエンターテインメント米国法人(SCEA)社長を歴任。
2006年 ソニーコンピュータエンターテインメント(SCEI)社長
2009年 ソニーEVP
2011年 ソニー副社長
2012年 ソニー社長兼CEO
2018年 ソニー会長
2019年 ソニーグループシニアアドバイザー


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