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『渋沢栄一と勝海舟』これを読めば「青天を衝け」が倍おもしろくなる!渋沢栄一と徳川慶喜は切っても切れない関係。

コウカワシン

こんにちはコウカワシンです。

今回は安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)さんの著書『渋沢栄一と勝海舟』から学ばせていただきます。

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目次

『渋沢栄一と勝海舟』はどんな本?

『渋沢栄一と勝海舟』は、ズバリ!「幕末から明治維新の流れがわかる本」です。

本書はこのような本

わたしは2021年に放送されたNHK大河ドラマ青天を衝けを毎週欠かさず見ていました。

主人公・渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)の若かりし頃の熱い情熱に動かされ変革する時代を生き抜いていく姿にわたしも心を熱くしています。

渋沢栄一を熱演した吉澤亮(よしざわ・りょう)さんは、素晴らしかったですよね。

渋沢栄一は尊王攘夷の思想を胸に高崎城襲撃、横浜の外国人居留地を焼き討ちにする計画を立てていたと知り、あの若さでなんとオッたまげることを考えるのかと、おどろくばかりでした。

日本を外国の魔の手から守りたい一心だったのでしょうね。

けどのその計画は、未遂に終わり、それまでに知り合いになっていた徳川(一橋)慶喜の側近・平岡円四郎から「一橋の家来にならないか」と誘いを受けます。

最初は渋っていたもの尊王攘夷の意思はそのままに徳川慶喜の家臣となり、平岡の片腕となり働きます。たぶん来週(2021年5月30日)の放送で恩人・平岡が水戸藩の尊攘派に暗殺される場面が放送されそうです。

人生いろいろですが、渋沢栄一は豪農の名字帯刀の家に生まれ、何不自由のない暮らしぶりの中にも武士と農民の身分格差に悩み、外国から日本が狙われてると知れば、自分の命も顧みずに突っ走るあの勢いにわたしは胸を熱くしました。

この勢いこそが、明治維新後の近代国家日本を築き上げていく原動力となり、今の日本の基盤が出来るきっかけになったのであるし、それをドラマで見れるというありがたさにこの後の期待が大きくなるというものであります。

この「青天を衝け」では、明治維新における重要人物がたくさん発表され、大久保利通役には石丸寛治さん、西郷隆盛には博多華丸さん、岩倉具視役には山内圭哉さんと、そうそうたる方たちが演じていらっしゃいます。

さて、まだ出てきてない大事なお方がいますね~。その人の名は勝海舟(かつ・かいしゅう)!

勝海舟は、貧乏御家人の家に生まれながらも剣術・蘭学、地理学、兵学なども習得し、その才を老中首座の阿部正弘に認められ長崎海軍伝習所教頭になります。

勝海舟は1860年、日米修好通商条約の批准書交換のため遣米使節として咸臨丸にて渡米します。アメリカから帰国後は、海軍から離れたが、第14代将軍・徳川家茂に直訴して神戸海軍操練所を創設します。教え子には坂本龍馬などがいました。

その後、政変などで軍艦奉行の職を罷免され神戸海軍操練所は閉鎖、2年間の蟄居生活を送ることになります。1866年、軍艦奉行に復帰。そして15代将軍・徳川慶喜から第二次長州征伐の停戦交渉を任されます。

停戦交渉では、会津藩・薩摩藩の調停や、長州藩との交渉に奔走しますが、徳川慶喜が勅命で停戦命令を取得したため、それまでの停戦交渉の苦労が水の泡となり、憤慨して御役御免を願い出て江戸に戻りました。

これを見ると・・・徳川慶喜と勝海舟の間柄は、複雑と言いますか~あまり仲がいいとは言えない感じですよね。

実は、渋沢栄一と勝海舟も仲が良くなかったということです。この元幕臣たちの30年にわたる暗闘を教えてくれる本に出会ってしまいました。

それが本書、『渋沢栄一と勝海舟』安藤雄一郎著です。

渋沢栄一と勝海舟・・・この優秀な人材2人が、実は不仲だったとは知りませんでしたが、そのキーマンになったのが、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜なのです。

いったいどういうことなのか?

今回はこの『渋沢栄一と勝海舟』から学ばせていただきます。

本書がおすすめな人

このNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、ようやく徳川慶喜が立ち上がり、孝明天皇をめぐり薩摩藩との対決姿勢を鮮明にしました。

この後、徳川慶喜の第15代将軍就任、大政奉還、戊辰戦争、江戸無血開城、明治維新へと向かっていきます。これまでの放送で「尊王攘夷」の思想のもと、若い勢いで突っ走ってきた渋沢栄一が、徳川慶喜の側近・平岡円四郎のすすめで幕府側の配下になりました。

徳川慶喜の家臣になってからも「尊王攘夷」の意思は捨てずに、平岡円四郎の手足となって働きます。ところが恩人・平岡円四郎は水戸藩の尊攘派の恨みを買い暗殺されてしまいます。

渋沢栄一は平岡円四郎の死後も、その素直でまっすぐな気性と能力の高さは、慶喜の目にもとまり、慶喜将軍就任後、フランス政府から受けたパリ万国博覧会の招待に渋沢栄一を使節団の一員に抜擢しました。

このフランスへの派遣が、後々の渋沢栄一の躍進に影響したのは、間違いないと思います。

前置きは長くなりましたが、本書をおすすめしたいのは誰か?

それをわたしは徳川慶喜目線で考えてみることにしました。

自分とは、考えを異にする渋沢栄一を登用する器量のある上司であり、先代将軍が登用し能力は高いが少々クセのある勝海舟を使いこなす図太さ。(笑)

これは凝り固まった頭では理解できないことであり、どのような苦境に立とうと適材適所に人員を配置できる柔軟さを持つ人物にしかできないと感じました。

よって、本書はこのような人におすすめです。

『渋沢栄一と勝海舟』がおすすめな人

  • 経営者
  • 管理者
  • 指導者

『渋沢栄一と勝海舟』の要点は?

本書のポイントをピックアップしますと、

  • 元幕臣で、近代日本資本主義の父・渋沢栄一
  • 元幕臣で、幕末江戸無血開城の立役者・勝海舟
  • 江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜

この3人が、置かれた立場によってどのような明治維新を迎えたかにスポットを当て、徳川慶喜を巡って渋沢栄一と勝海舟の確執がどのような影響を与えたかがわかる内容となっています。

コウカワシン

わたしの独断と偏見でポイントをあげてみたいと思います。

渋沢栄一と徳川慶喜

渋沢栄一の略歴

前置きでも述べましたが、渋沢栄一は、天保11年(1840年)武蔵国榛沢郡血洗島(現・埼玉県深谷市血洗島)の渋沢家に生まれました。

渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を営み、富を得る豪農でした。そして何よりも一般の農家と違い、常にそろばんをはじく商才でもあったのです。

子どもの頃から父より漢籍の手ほどきを受け、従兄の尾高淳忠から「論語」や四書五教、日本外史を学び、そのほか剣術も習い、その頃の武士以外ではかなり高い教養を身につけていたと思われます。

剣術修行で知り合った勤皇志士たちと交友をするうち、尊王攘夷の思想に目覚め、外国人を追い払うため、文久3年(1863年)仲間と高崎城襲撃し武器を奪い横浜外国人居留地を焼き討ちにし長州と連携し幕府を倒すという計画を立てます。

ですが、その計画は、従兄である尾高長七郎の懸命な説得で中止となりました。その後、京都に出てはみたものの、尊攘活動に行き詰まり、江戸で以前に知り合っていた徳川慶喜の側近平岡円四郎の誘いで徳川慶喜に仕えることになります。

慶応2年(1866年)主君の徳川慶喜は将軍に就任、それに伴い渋沢栄一は、幕臣となります。パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として異母弟・徳川昭武の随員としてフランスに渡航しました。

パリに到着すると、見るものすべてに圧倒されます。整備された上下水道、蒸気機関車、エレベーター、発電機などの最新技術の数々にフランスの国力の高さに「日本もこのようにならなければ」の思いを強くしたそうです。

パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、1868年に帰国しました。でもその時には、幕府は消滅。駿府城に謹慎していた徳川慶喜と面会し「これからは、自分の道を行け」という言葉をもらいましたが、慶喜への恩義を感じ、静岡に留まり、フランスで学んだ「株式会社制度」や「銀行的業務」などを実践しようと試みました。

1869年(明治2年)明治政府からの要請で役人となります。最初は断ったものの大隈重信の説得や断り続けて恩人・徳川慶喜の立場が悪くなることを避けてのことです。

配置された大蔵省では、井上馨とともに次々と事業(鉄道・富岡製糸場・郵便制度・・・)を立ち上げていき、政策立案は、200にも及びました。しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨とともに大蔵省を退官しました。

その後は、民間人として実業家の道を歩きました。そのスタートが「第一国立銀行」の設立。その第一国立銀行を拠点に、フランスで学んだ株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、『論語と算盤』でもあるように「道徳経済合一説」を説き続けました。

その結果、生涯に約500ものの企業の創設に関わり、約600の教育機関・社会公共事業の支援に民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931年(昭和6年)に91歳の生涯を閉じたということです。

徳川慶喜に恩義を感じ忠節を尽くす渋沢栄一

渋沢栄一の業績は、徳川慶喜がいなければ、なし得なかったことが多いと感じます。まず、慶喜に仕えた時は、バリバリの「尊王攘夷」思考にかぶれ、慶喜に対しても攘夷を実行させようと熱心でした。

慶喜は、実は尊王思想」は持ちつつも開国派。二人の考えは異なるものでしたが、慶喜は栄一を重用します。栄一は慶喜の配下を増員させるため志ある者は、農民でも集め兵にするべく養成を担当することになります。

ですが、兵の訓練をすればするほど、到底外国には叶わないことも気づくようになり、欧米の兵器、兵制、医学、船舶、機械など、優れたものは何でも摂取したい気持ちになり、攘夷論を唱えることはなくなったと言います。

そんな時に思いもかけないフランス派遣の話に胸躍る気持ちは高まりました。フランス滞在中、攘夷の志士からは完全に脱皮し、やがて幕府がなくなり新時代がくる予感を感じ、新しい日本に役立てたいと感じるようになりました。

渋沢栄一にとっての徳川慶喜は、生涯の恩人となり、慶喜に対する忠誠心は揺るがないものになっていました。しかし、フランスから帰国すると幕府は消滅していました。

慶喜はというと、新政府が設立後、江戸城を明け渡し巡り巡って駿府に移りました。そこで静岡藩と名を変えた地にかなりの年月滞在することになります。

新政府のリーダーになれず、薩摩・長州連合軍との戊辰戦争に敗れ、しかも徳川家を朝敵にまで貶めた責任を深く感じていた慶喜は、30年にわたり表舞台に上ることはありませんでした。

しかし、渋沢栄一は、その慶喜の名誉回復に尽力したということです。慶喜も他の誰とも面会することはなかったけど、栄一だけには政府の役人になった時も度々会っていたということで、二人の親密度はかなりのものだったということですね。

勝海舟と徳川慶喜

勝海舟の略歴

勝海舟は、文政6年(1823年)江戸本所亀沢町(現・東京都墨田区両国)の生まれです。父・勝小吉、母・信で、旗本ながら貧乏暮らしをしていたそうです。その暮らしぶりと言えば・・・NHKBS時代劇「小吉の女房」を見ている人はご存知ですよね。

それでも、幼少期の文政12年(1829年)11代将軍徳川家斉の孫である初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として勤めたそうです。残念ながら慶昌は早世したため出世の可能性はなくなったのです。

それでも幼少期から習った剣術では直心影流免許皆伝の腕前。16歳の時(1838年)、父・小吉から家督を譲られ、蘭学にも目を向け、さらに西洋兵学も習得し、後に蘭学塾を開いたそうです。

蘭学を学んだうえで有名な話が、蘭和対訳辞書「ヅーフ・ハルマ」を寝る間を惜しんで二部筆写し、一部は手元に置き、一部は売ったという話。

勝海舟が世に出るきっかけになったのが、1853年の「ペリー来航」です。幕府では、身分の上下なく「海防意見書」を募集したところ、勝海舟が提出した内容が的確であったため、老中首座・阿部正弘の目にとまり、やがて長崎海軍伝習所教頭に就任。薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得ることになります。

それから時代は流れ、幕府はアメリカとの間に1854年「日米和親条約」、1858年「日米修好通商条約」を結ぶことになりました。その「日米修好通商条約」の批准書交換のため、遣米使節となり、咸臨丸の実質的な艦長に就任し1860年に渡米しました。

アメリカ滞在中には政治・経済・文化などに日本との違いに衝撃を受け、帰国後は一時海軍から遠ざかったものの、将軍・徳川家茂に直訴して神戸海軍操練所を創設します。

それは日本全体で守る「日本海軍」を目指し、欧米列強に対抗するためで、幕府の人間だけではダメと、広く人材を集めました。その中には脱藩していた坂本龍馬もいて、航海術や操船技術を教えたのです。

そしてなによりもアメリカを直に見てきた勝海舟は、広い視野を持って世の中を見ることができた貴重な幕臣であり、坂本龍馬、西郷隆盛らを開眼させる第一人者となったのです。

ここまで見ると、渋沢栄一に重なってくるなあ~と感じた人は少なくないでしょう。

その後の1864年、禁門の変があり、時の流れは倒幕へと向かいます。幕府では危機感がつのり「幕府の海軍ではなく日本の海軍」を掲げる勝海舟は、保守派から恨みを買い当時就任していた軍艦奉行を罷免され神戸海軍操練所は閉鎖となり2年間の蟄居生活を送ります。

1866年、軍艦奉行に復帰、その時、将軍は徳川慶喜となっていました。慶喜より、第二次長州征伐の停戦交渉を任されて、仲の悪くなっていた会津藩と薩摩藩の調停や、長州藩とも交渉するも、なんと慶喜が勅命で停戦命令を取得に成功したため、憤慨し御役御免を願い出て江戸に帰りました。

1868年、鳥羽伏見の戦いで徳川幕府は敗れます。薩摩長州が手を組んだ官軍が江戸に向かって進軍してきました。その時、幕府には対応可能な人物が勝海舟しかいなかったため復職し郡司総裁として全権を委任されたということです。

「江戸を火の海にしてはいけない」この思いを心に秘め、西郷隆盛と江戸城を明け渡す用意があるとして会談。江戸住民150万人の生命・財産が戦火から守られたのでした。

明治維新となり、勝海舟は徳川家と駿府(静岡)に移ります。静岡藩の藩主となった慶喜はいまや朝敵の扱い。ですが勝海舟は新政府との間に立って徳川家を守ろうとします。

新政府も勢いで政権を取ったはいいが、国を治めるという点においては、優秀な幕臣をかかえている徳川家にかないません。勝海舟は新政府とのパイプになり、優秀な人物を新政府に送る役目も担いました。徳川家にとっても厳封となってたくさんの家臣を抱えるわけにはいきませんから都合がよかったともいえますね。

新政府に送り込んだ人材の中には、渋沢栄一も含まれていました。が、勝海舟自身も最初は拒んでいたのだが再三の誘いに仕方なく政府入り、外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官を歴任しました。

明治7年(1874年)の台湾出兵に不満を覚え、すべての職を辞任します。そして西南戦争で、逆進となった西郷隆盛の名誉回復に奔走し、天皇の許可を得るのと上野の銅像建立にも支援をしました。明治20年に伯爵を綬爵。明治21年には枢密顧問官。

明治32年(1899年)風呂上りにブランデーを飲むと脳溢血で倒れて死去。最後の言葉「コレデオシマイ」は有名。享年77歳でした。


徳川慶喜とそりの合わなかった勝海舟

勝海舟の略歴でもわかる通り、勝海舟という人は、類まれなる能力の持ち主でありながら重要な役どころを任されたかと思えば、はしごを外されて冷や飯を食うなんて処遇に耐えてきたことがわかります。

先見を見通す能力に長け、外国を直に見て日本との違いをよく知る人物でした。彼の思想は「日本は開国し、外国と交流し、国自体を強くしなければならない。そのためには幕府だけではなく日本全体で取り組むべき」でした。

それと同じ考えは、徳川慶喜にもあり、慶喜自身も「開国派」であり、幕府を中心とした中央集権国家を作ろうと考えていました。ですが朝廷は「攘夷(外国を追い払うこと)を実行せよ」との命令を出します。

もうそのような時代ではないことを進言したいところではありますが、この時、慶喜はまだ将軍後見職でしたので、幕府の調整もしなくてはいけません。薩摩の島津久光の裏工作にも気づき、「開国」主義を引っ込め攘夷を唱えることになりました。

その後起こったのが「禁門の変」。しかし孝明天皇は長州軍の過激さを心配し、徳川慶喜に長州軍の排除を命じます。

禁門の変(きんもんのへん)

禁門の変とは、「八月十八日の政変」にて攘夷思考だった長州軍を幕府側が京都から追い出したのがきっかけで、孝明天皇の攘夷表明で改めて京都での復権を試みた長州軍のクーデターです。

これにより第一次、第二次長州征伐がされるのですが、どちらも不発。第二次長州征伐の後処理を任せられたのが、長崎海軍伝習所の教頭時代に多くの人脈を作った勝海舟でした。

その後、薩摩と長州が手を組み倒幕へ向かい大政奉還して政権を朝廷に返した後の覇権争いとして始まった鳥羽伏見の戦いで幕府は敗北。江戸にまで攻めてきた薩長軍の司令官西郷隆盛と勝海舟は会談し「江戸無血開城」します。

その後、幕府はなくなったのですが、勝海舟は徳川家を守り静岡に移封となった後も付き従い、新政府との窓口としての任に当たります。

勝海舟は何度もはしご外しをされても徳川家や徳川慶喜を守りました。もしかしたらイケ好かない上司に対し親身になる必要もなかったと思います。

ですが、仮定として、本音では開国派で、幕府だけの力では外国に対抗できない。日本全体で取り組むべき課題」とした共通の思想があったからではないでしょうかね。

たとえ思いが同じでも、その時の立場で本音が言えないなんてことはあったでしょうから、不満はありつつも日本のためと耐えてきた二人が見えてくる気がします。

徳川慶喜という人

徳川慶喜の略歴

天保8年(1837年)江戸小石川(現・東京都文京区)の水戸藩邸に生まれる。父・徳川斉昭、母・有栖川宮織仁親王王女、吉子。幼名は七郎麻呂。

その後、水戸で過ごすことになります。水戸では藩校弘道館で学問・武術を教授され、天才の誉れも高かったと記録にあります。父・斉昭は他家に養子にも出さず手元に置いていました。

ですが、跡継ぎのいない御三卿の一つである一橋家へ養子に出されることになります。これは未来の将軍候補になったといっても過言ではないのです。

時の将軍、12代徳川家慶に寵愛を受け、家慶から偏諱を授かり徳川慶喜となりました。

嘉永6年(1853年)浦賀沖にペリーが来航しました。その混乱の最中に将軍・家慶は死去。そのあとを継いだ13代将軍・徳川家定は病弱で跡取りを儲ける見込みがないということで、慶喜を推す声が上がりましたが、一橋派を支えていた有力者が相次いで亡くなったため勢いを失い、南紀派が推す徳川家茂が14代将軍となりました。

その時、幕府の実権は大老・井伊直弼で、勅許(天皇の許し)を得ずに日米修好通商条約に調印。慶喜は斉昭、福井藩主・松平春嶽らとともに井伊直弼を詰問します。井伊直弼はそれに対し安政の大獄という措置をとります。

これにより慶喜は隠居謹慎処分となり、これは桜田門外の変が起きるまで続きます。桜田門外の変とは、安政7年3月に井伊直弼が暗殺された事件です。これにより慶喜の謹慎処分が解かれることになり、その後、将軍後見職を拝命しました。

それから、舞台は江戸から京に移ります。将軍後見職となった慶喜が朝廷との協議に当たるためです。京ではさまざまな難曲を退けるも将軍・家茂の死去に伴い、15代将軍就任は避けられない状態となりました。

将軍となった慶喜は、精力的に行動し、神戸の開港(朝廷は反対したが説得した)これにより外国からの信頼を得て外国式のやり方(軍備・戦法・行政)を取り入れていきます。

将軍・慶喜の施政の改革は次の通りです。

慶喜の改革

  • 身分にとらわれない人材の登用
  • 職制の改革
  • 賞罰の厳正
  • 冗費の節約
  • 陸・海軍の育成
  • 外交の刷新
  • 貨幣法制度の改正

この後、慶応3年(1867年)大政奉還(政権を幕府から朝廷へ返納)を行うわけですが、慶喜は京に赴いたころ一度、朝廷に対してこのことを打診しています。ですが、孝明天皇は政権も引き続き頼むと返事をされたのです。

大政奉還の時、孝明天皇はもうこの世になく明治天皇に変わられていました。慶喜が大政奉還した理由というのは諸説あります。「倒幕を目論む勢力ではとうてい政権担当する能力はない」という慶喜の意地がそうさせたという意見が大半だろうと思います。

ですが、前土佐藩主・山内容堂がもたらした建白書の「船中八策」が目にとまったからではないかと思う意見もあります。この船中八策の作成者は坂本龍馬です。

船中八策

一策 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
二策 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
三策 有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ、官ヲ除クベキ事
四策 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
五策 古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事
六策 海軍宜シク拡張スベキ事
七策 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守護セシムベキ事
八策 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事

原文の通りなので、意味わからないですよね。だいたい書いてあることとは、

今、薩長は幕府に不満があり武力で倒幕したがっています。でも、内戦にでもなったら欧米の格好の餌食になりすぐにでも日本は植民地にされてしまいます。それを回避するには幕府が政権を朝廷に返すこと。そして身分関係なく世界と渡り合える有能な人材を会議に参加させ、海軍の拡張を図り国防を強化すべきです

といったところですね。これを見て慶喜も考えたはずです。

大政奉還して政権は朝廷に戻し、軍備を司る長としての幕府を残し、各藩と連携して外国が攻めてきたときを想定しての軍隊を作るつもりが、薩長を中心とした討幕派は「大政奉還」が厄介でした。

討幕派の言い分は「大政奉還しても徳川慶喜が中心となるのは目に見えているため、新政府ができたとしても思うような政治ができない」ということです。

そこで、慶応3年(1867年)「王政復古の大号令」を起こし、明治天皇を中心とした徳川家を排除した新政府をつくると宣言。幕府を取り潰し徳川家は役職も領地も返上せよと要求するクーデターを起こし、幕府と対立を深め戊辰戦争へと向かっていきます。

慶喜にしてみたら「何でこんなことになったの?」てな戦争です。これまで幕府はフランスから軍備や戦法など最新のものを取り入れて力を入れています。でもこれは薩長と張り合うためではなく、外国に対しての防備なのです。

内戦になりどちらが勝つにせよ、大きな被害となり国も疲弊してしまいます。そこを外国が狙うのは目に見えています。

慶喜はそれを避けたかったのと薩長が支援する公家に手をまわして得た錦の御旗」を盾に「こちらが官軍」と名乗りを上げると戦意喪失したのか、戦いもそこそこに江戸に戻ります。

幕府軍は圧倒的な戦力を保持していましたが、賊軍となり総大将がいなくなったことで敗走します。薩長軍は勢いを増し東征を続け、いよいよ江戸にまで近づいてきました。

勝海舟にあとは任せ、自身は寛永寺にて謹慎することに。その後、水戸へ移り、明治政府が成立したら、静岡に移り謹慎生活を続けることになります。

その後30年にわたる謹慎生活は、世間から見た慶喜の評価を二分させることになります。ある人は「卑怯者、弱虫、小心者、恥さらし」という一方、ある人は「家康公の再来、名将軍、徳川最強の将軍」といい称える声があるのです。

謹慎を許され、明治30年(1897年)に、東京巣鴨に移住。明治31年(1898年)明治天皇への謁見を無事に終え、名誉回復した徳川慶喜は明治35年(1902年)貴族院議員に就任。明治41年(1908年)大政奉還の功績により、明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与されました。

明治43年(1910年)貴族院議員を辞め、隠居。大正2年(1913年)死去。享年77歳。

これが、徳川慶喜の生涯です。

徳川慶喜の人となり

徳川慶喜は幼少から英才教育を受け、外国の情報にも詳しかったそうです。日本の近隣、インドや清(現・中国)が、欧米列強の植民地になるのを胸を痛めていました。

水戸藩は昔から「尊王攘夷」の思想があり、天皇陛下を敬い、外国勢は排除すべきという考え方でした。ですが、現状的に外国を排除するというのがもはや不可能と知り、「どうすれば外国から日本を守れるだろう」ばかりを考えていたと思われます。

ですので、幕府のあり方に疑問を抱き、天皇を中心とした中央集権国家を作り上げるつもりだったのではと思います。慶喜が亡くなる時に「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた。わたしはその幕府を、葬り去るために将軍になった」という言葉を残します。

本当に言い得た言葉であり、最後の将軍としての覚悟を秘めていたのだと感じました。新しい世を作る・・・言葉にするのは簡単ですが実行するのはとても難しいことです。

ものごとは始めと終わりが難しいと言います。260年続いた徳川幕府を自分の代で終わらせてしまった責任や戊辰戦争を引き起こすきっかけと賊軍とまでなってしまった堕落ぶりを恥じて30年間の謹慎生活を送られたのではないでしょうか。

この姿勢が、それまであまり仲の良くないとされる勝海舟の心にも届き、徳川家の存続、慶喜の命を守る交渉に尽力させたのだと思います。

渋沢栄一はもちろんのこと、勝海舟も徳川慶喜をめぐり、明治の世に幕末の歴史が正しく伝えられていないことに胸を痛めました。そして二人とも生涯をかけて徳川慶喜の名誉回復に力を注いだのです。

これは徳川慶喜が真っ当に「日本の行く末を案じ精魂こめてきた」ことを物語るものではないですかね。ここまで感じさせる人物をわたしも他に知りませんでしたし、今回、恥ずかしながら初めて知りました。

わたしの好きな言葉に「スマートで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」があります。この言葉はそっくりそのまま徳川慶喜に当てはまりますね。

先見性、柔軟性、思慮深い、いさぎよさ」これすべて上に立つものが身につけるべきものですよね。このことを徳川慶喜から学ばせていただきました。

『渋沢栄一と勝海舟』の感想・まとめ

幕末の時代背景なしには語れない偉人たち。
誰もが日本の行く末を案じていた。

本書は、渋沢栄一と勝海舟の関りについて書かれた本ですが、あまりにも徳川慶喜の印象が強烈すぎて、二人の関係性をこの記事ではあまり書けませんでした。

渋沢栄一にとって徳川慶喜は大恩人。勝海舟にとって徳川慶喜は「目の上のたんこぶ?」。まあ、そのようなことはないのでしょうけど、いろんな関連ドラマでは二人の不仲な部分をクローズアップさせたり、いかにも慶喜が無能であると言いたげな演出をしてるものがあります。

そりゃ、薩長の躍進がメインテーマだったら、そういう感じに作り上げたりして、幕府の腐敗や無能ぶりを映像化しますよね。

本書でがぜん徳川慶喜に興味が湧き、他の関連本もぜひ読みたくなりました。

さてさて、渋沢栄一と勝海舟の関りについてですが、この二人もあまり仲が良くなかったみたいです。というか渋沢栄一が「勝さんは私を小僧扱いした・・・・・」と見下されたことについての恨み言を残していますが、渋沢栄一と勝海舟では17歳も年上です。そりゃ、子ども扱いされるんじゃないかなあとも感じます。

それと、静岡藩での徳川慶喜の扱いについても不満を抱いていたようです。「慶喜公をこんなところに押し込めて」的なことを考えるのはごく自然だと思います。しかし、勝海舟にも考えがあったからだと思います。

勝海舟も渋沢栄一の能力は認めていて、新政府から優秀な人材の求めには、渋沢栄一を推挙したいきさつがあります。ですので、勝海舟も人を見る目はもちろんあったということです。

「青天を衝け」で、個人的には、徳川慶喜役の草彅剛さんの演技に期待したいですし、明治維新後の勝海舟の奮闘ぶりも気になるところです。

本書は、まだまだ書ききれないくらい興味惹かれる内容が満載です。本書を読み「青天を衝け」を見るともっと面白さが深まると思います。

なお、本書をもとにわたしの個人的な意見を書かせていただきましたが、事実と違うという部分がありましたら、ぜひコメントいただけたらありがたいです。

どうぞよろしくお願いします。

『渋沢栄一と勝海舟』の概要

本書の目次

『渋沢栄一と勝海舟』

プロローグ 栄一・海舟・慶喜の三角関係
第一章 栄一と慶喜の信頼関係のはじまり(農民から武士になる)
第二章 そりが合わない海舟と慶喜(敗戦処理を命じられる)
第三章 栄一と海舟の出会い(静岡藩での奮闘)
第四章 幕臣が支えた近代国家(明治政府に出仕する二人)
第五章 回収への不満が募る栄一(謹慎生活はいつまで続くのか)
第六章 名誉回復への道のり(生命をかけて徳川家を守る)
エピローグ 歴史の語り部

著者の紹介

安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)

1965年、千葉県生まれ。歴史家。

文学博士(早稲田大学)。早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。

主に江戸をテーマとして執筆・講演活動を展開。「JR東日本・大人の休日倶楽部」などの講師を務める。

主な著書

徳川時代の古都 潮出版社 (2023/8/4)
江戸文化から見る 男娼と男色の歴史』カンゼン (2019/8/20)
大名格差』彩図社 (2023/3/20)
江戸の色町 遊女と吉原の歴史』カンゼン (2016/9/7)
江戸の格付事情』エムディエヌコーポレーション(MdN) (2023/8/7)
お殿様の定年後』日経BP (2021/3/9)
江戸の旅行の裏事情 大名・将軍・庶民 それぞれのお楽しみ』朝日新聞出版 (2021/10/13)
江戸の給与明細』エムディエヌコーポレーション(MdN) (2022/12/7)
春画でわかる江戸の性活』宝島社 (2021/2/9)
徳川家康「関東国替え」の真実』有隣堂 (2022/12/6)
江戸の不動産‎ 文藝春秋 (2019/3/20)
大名廃業』彩図社 (2023/1/30)
大名屋敷「謎」の生活』PHP研究所 (2019/2/1)
大江戸の飯と酒と女』朝日新聞出版 (2019/10/11)
賊軍の将・家康 関ヶ原の知られざる真実』日経BP (2022/10/4)
幕末の先覚者 赤松小三郎』平凡社 (2022/8/10)

コウカワシン

最後までお読みいただきありがとうございます。

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この記事を書いた人

四国在住。
ミニマリスト。趣味は映画観賞と音楽鑑賞、読書、野球観戦。
映画は特に好き嫌いなくほとんどのジャンルーを観ます。音楽はジャズとクラシックが大好きです。読書は歴史書が好きでよく読みます。

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