MENU

渋沢栄一の天才的発想が朱子学に固まった経済オンチの日本の不可能を可能にした!

コウカワシン

こんにちはコウカワシンです。

今回は、井沢元彦(いざわ・もとひこ)さんの著書『お金の日本史』から学ばせていただきます。

毎週日曜日のNHK大河ドラマ「青天を衝け」を楽しみにしています。

「青天を衝け」では日本資本主義の父である渋沢栄一の生涯を映し出していて、4月11日の放送予定では幕末の日本開国に安政の大獄など、日本の歴史上重大な事態が目白押しの内容となっています。

この動乱期の争点となったのが日米和親条約日米修好通商条約など、日本とアメリカが国交を結ぶ起点となった出来事でした。

「日米修好通商条約」は、日本に分の悪い不平等条約として悪名高いのです。

なぜかというと、

  • 「日米和親条約」で、開かれた下田、函館に加えて、新たに4つ(横浜・長崎・新潟・神戸)の港を開港し、その港に外国人居留地を設定する。
  • 日本国内で外国人が罪を犯した時に、日本の法律ではなく、その外国人の出身国の領事が自国の法律で裁く領事裁判権の承認
  • 他国の商品を日本が輸入して売る際に、その商品にかける関税額を日本で決められなくなるという関税自主権の放棄

ということだからだそうです。

この不平等条約は、アメリカのずるさを物語ることとして語り継がれています。

しかしアメリカは、そもそも日本と貿易がしたくてもっと真っ当な条約を結ぶつもりが、長年の鎖国で平和ボケした政治オンチでもあり、儒学を祖とした「朱子学」にまみれた江戸幕府幕閣の失態だとする人がいます。

それは歴史小説家の井沢元彦さんです。

井沢元彦さんは、幕末の国難とも言えるペリー来航日本開国は、実は大変革期であって、日本が貿易大国および経済大国になる機会を逃したとされています。

その機会を逃したのは江戸幕府をはじめ日本の武士が、徳川家康が奨励した朱子学にかぶれ、頭の固いままアメリカとの交渉をしたからと言います。

そのことをわかりやすく解説した本が『お金の日本史』です。

なかなかに意外性のある強烈な意見ですね。物事にはいろんな見方があります。ですので鵜呑みにするわけではありませんが「これも一つの意見」として学ばせていただきます。

スポンサーリンク
目次

『お金の日本史』はどんな本?

本書の目次

『お金の日本史』

第一章 和同開珎の謎

  1. 大中華思想からの脱却
  2. 新貨幣のメッセージ
  3. 黄金の国・日本の失敗

第二章 中世社会の闇~幕府腐敗と自社勢力

  1. 海を渡る戦略物資
  2. 将軍家の腐敗と蓄財
  3. 大改革者・織田信長

第三章 帝国主義の脅威と戦国時代

  1. 大名たちの台所事情
  2. 鉄砲伝来・キリスト教・唐入り
  3. 商売を害する朱子学の毒

第四章 脱・朱子学と資本主義への道

  1. 江戸「三大改革」の虚実
  2. 朱子学バカの幕末維新
  3. 日本資本主義の父・渋沢栄一

本書の内容

本書の内容をピックアップしますと、

  • 和同開珎は脱・大中華をめざす日本の「独立宣言」だった
  • 「本能寺の変」が昭和経済にまで影響した
  • 徳川家康は実は貿易に積極的で開国論者だった
  • 徳川吉宗は百姓を徹底的に搾り上げた「米将軍」だった
  • 田沼意次を排除した朱子学バカが日本に大損をさせた
  • 「渋沢なき資本主義」は「論理なき資本主義」だ

とこういうことが書いてあります。

コウカワシン

最初にお断りしておきますが、決して「朱子学」を貶めるつもりはありません。

中世から今まで日本人が礼儀正しい国民であるという道徳のもとになったのも「朱子学」のおかげだと思います。

ただ、偏った思想を持つ人がいたことは事実で、それが幕末に影響したのは仕方がないことなのかもしれません。

ですのでいきすぎた表現がありお気を悪くする方がいらしたのならこの場を借りお詫び申し上げます。

『お金の日本史』を誰にすすめたいか?

本書は、歴史の教科書では載ってないようなことが記しています。

いわば、今まで正当化されていた史実を覆すような内容です。

ですので、「こんなの嘘っぱちだ~」と否定される方には、すすめられません。

「へぇ~、こんな見方もあるんだあ~」と大きな気持ちで読める方にすすめたいですね。

コウカワシン

内容的には面白く読めますのでぜひいろんな方に読んでいただきたいものです。

『お金の日本史』からの学び

本書は「和同開珎」から「渋沢栄一」までの広い範囲を書き記されていますが、わたしの独断と偏見で、「織田信長」から「渋沢栄一」までの間から要点を取り上げさせていただきます。

大改革者・織田信長、継承した豊臣秀吉、徳川家康

歴史上の偉人で高い人気を誇る一人に織田信長がいます。

この人は本当にたくさんの偉業を残しました。主なものを見ると、

  • 楽市楽座(「座」という商人の組合を廃止し、税を軽くし自由に商売ができるようにした)
  • 兵農分離(農民と兵士を分け、それぞれの仕事に専念できるようにした)
  • 関所の廃止(必要のない関所を廃止し、人や物の往来をしやすくした)
  • 規格の統一(様々な規格で大きさのバラバラだった升(ます)の大きさを統一し管理しやすくした)
  • 実力主義(出自の低い者でも実力があるなら登用した)

などがあります。

この政策により、信長は農業と商工業の2つの財布を持つことができました。このような大名は他におらず、愛弟子である豊臣秀吉に引き継がれることになります。

ここですごいなあと思うのが兵農分離。つまりそれまでの旧大名は、武士が農業をやっていたので農繁期には戦はできず、足軽などはタダ働きだから「この城を落としたら、女はヤリ放題、何でも盗み放題」という無法なことも黙認していました。

けど、信長にはお金があるので、きっちりと農民と兵士を分け、農民にはしっかり農業をしてもらい、兵士(足軽に至るまで)も給金が出るので農業から解放され、いつでも戦ができる。

足利義昭を奉じて京に上った時も暴行略奪は一件もなく、兵士はお金を払って買い物する、街の治安を守るなど、今までの軍隊とは全然違う信長軍に京の人たちは支持し、足利義昭と対立することになっても信長に味方したのでした。

鉄砲伝来・キリスト教・唐入り

信長の頃には、鉄砲ポルトガルから伝わりました。鉄砲自体は日本で国産することができたのですが、火薬に使う硝石(しょうせき)が取れず、輸入に頼るしかありません。

信長は当時、国際貿易港だったを押さえ、「将軍再興の費用を拒否したのはけしからん」という口実で軍事的に制圧しました。これで硝石の輸入ルートと購入費用もばっちり獲得です。

そして鉄砲とともに入ってきたのがキリスト教です。九州や西国にはキリシタン大名になった方もいましたが、信長は自分の領地でキリスト教を広める許可は出しても自分は入信しませんでした。

その後、豊臣秀吉徳川家康にいたっては、キリスト教を厳しく弾圧しました。つまり日本には、キリスト教が定着しなかったのです。

これには理由があったと言います。

九州の熱心なキリシタン大名がローマ法王に日本でのキリスト教布教を知ってもらうために天正少年遣欧使節(てんしょうしょうねんけんおうしせつ)を送ります。

出発したのが1582年(天正10年)で、「本能寺の変」の年の春でした。彼らは3年かけてローマに到着しローマ法王を表敬訪問し無事帰国するのですが、うち3人はキリスト教の道を歩んだのに、千々和ミゲル(ちぢわみげる)だけは公式にキリスト教から離れたという説があります。

その理由は、旅の途中に多くの日本人が裸同然で鎖につながれ奴隷として売られていくのを見たというのです。実は豊臣秀吉も九州に訪れた時に「日本人男女が数百人南蛮船に買い取られて連れて行かれた」ところを見ていたのです。

今でこそキリスト教というと良いイメージがありますが、この時代は大航海時代でヨーロッパの国々があちこちで植民地を作り、現地の非キリスト教・非白人に対して残酷なことをしていました。

最初は容認するもキリスト教布教と言いながら行われる裏取引。スペインは日本に対し武力行使する腹積もりもあったそうです。そうなれば、キリスト教弾圧をした理由も理解できるはずです。

その当時、インカ帝国はスペインによって滅ぼされました。たぶん、日本のような武士がいなくて信長・秀吉・家康のような強力な指導者がいなかったからでしょうね。

秀吉といったら、唐入りが有名です。秀吉の生涯の中で汚点とされることの多い唐入りですが、これにも理由があります。

兵農分離した兵士たちの仕事は戦争です。日本国内は統一され平和が達成されました。すると外に向いて仕掛けていかなければ維持できません。これはどの時代のどの武将にもいえることで、アレキサンドロス大王チンギス・ハーンナポレオンも同じ道を歩んだのです。

商売を害する朱子学の毒

さてさて「お金の日本史」のはずなのにお金の話が出てこないではないか?と思われていますよね。それが違うのですよ。

信長が農業と商工業の2つの財布を持ち、外国との貿易を行った。それを秀吉が継承した。キリスト教は、弾圧したけど外国との取引は行っていたのです。外国との取引は銀が使われていました。

やがて江戸幕府が開かれ、政治の舞台は大坂から江戸に移ります。徳川家康の政治も巧みでした。唐入りは失敗に終わりましたから外へ攻めていくわけにはいきません。武士の仕事は戦うことから農業の監督・城での事務や警護ということにし、この政策はうまくいきました。

そして、国内の経済を安定的に発展させるため、通貨制度を整備しました。通貨の基準となるのは小判(金貨)で、金一両に対し銀は約50匁で、銭(銅貨)だと四貫文(一文銭4000枚)としたのです。

小判(金貨)、一両=(銀貨)、約五十匁=(銅貨)、四貫文(一文銭4000枚)

しかし、金が広く使われていたのは東日本で、京や大坂を中心とした西日本では銀が使われていました。しかも大きなものでは丁銀(ちょうぎん)、少額のものは豆板銀(まめいたぎん)などが使われていたのです。

「お金の歴史」において天下を取った家康が、なぜ東も西も統一通貨としなかったのか?

これに対して仮説を立てると、信長・秀吉に見習って国際貿易を大々的にやりたかったのでは?と思われるのです。

本能寺の変が昭和経済にまで影響

話は戻りますが、明智光秀が主君・織田信長を本能寺で討ったのは、日本史史上、最大の出来事でしたよね。なぜ光秀は信長を討ったのかは、いろんな解釈があるのでここでは語りませんが、これを家康の立場で考えてみます。

光秀の大恩人である信長を光秀は討った。秀吉は主君である織田家を潰した。要するに戦国時代にモラルはなかったとします。天下を取った家康は、自分と徳川家を守るための策を取ります。

「大名など信用できない。徹底的に監視するしかない」と考えるが、それだけでは足りない。そこで日本の武士たちの思想を変えることにします。

そこで用いたのが「朱子学」でした。朱子学は、「親に対する「孝」、主君に対する「忠」を絶対化した「宗教」のようなもの」です。

「これだと裏切られることはない」と徳川家の武士が子どもの頃から朱子学を学ぶ体制を作らせると、各大名も徳川将軍家を見習うようになりました。

江戸時代が進むにつれ武士という武士は教育によって「朱子学の信者」となったのです。そしてその弊害として、商業や貿易は「人間のクズのやること」という偏見まで植えつけられることになるのです。

たしかに江戸時代は朱子学のおかげで「幕府への反乱」もなく徳川将軍を中心に幕末まで続きます。けど政治の中心にいる武士は朱子学バカの経済オンチばかりです。

そこにアメリカがやってきました。アメリカは日本を植民地にするためではなく、きちんと貿易をして共存共栄しようと思っていたのです。実は同じ頃にやってきたロシアもアメリカと同じ考えだったと言います。

しかし、朱子学バカは「商売は人間のクズの所業」だから、アメリカ側の「日本側の提供する食料や商品に、わがアメリカは代価を支払う」とするところを「幕府は商売はせぬ!」というのですからまったく話にならなかったのです。

最初は友好的に話を進めようとしたアメリカですが、これはやり方を変えようということになり、高圧的な態度でのぞむことにしたのだそうです。その結果が「日米修好通商条約」にみる不平等条約です。

まだ、イギリスにしたような手荒なことはされなかっただけマシかもしれませんが、あまりにもひどい失態だとは思いませんか?

ああ~この時代に田沼意次(たぬまおきつぐ)がいたら・・・。田沼意次という人は日本史においてあまり良い評判のない方ですが、「自由経済主義者」という側面を持ち、この幕末の時代に生きていたら、うまくアメリカとの通商を取り計らったのではないかと思われます。

「アメリカとそのような条約をしたのならウチともしろ!」と、イギリス・ロシア、それまでの貿易相手国オランダとまで不平等条約を結ぶ羽目になった日本・・・。このまま清の二の舞か?と思われましたが、明治維新が起こります。

ここで、著者の井沢さんも言っていることなのですが「朱子学」が、悪いわけではないのです。良い考えであり、教えなのです。ただ、経済的に見たら日本にとって最悪だったわけです。

徳川慶喜により大政奉還がなされ、明治維新となり薩長を中心とした中央政府ができますが、やはり元は朱子学にまみれた武士に違いありません。

「これからの日本は、貿易立国を目指す!」と息巻いても、「商売とは人間のクズのやる悪事」という朱子学からみた偏見は残ります。けど、これを解消しないことには、日本の発展はありえません。

そこで、渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)の出番となります。

日本資本主義の父・渋沢栄一

渋沢栄一は、幕末のころ1840年(天保11年)武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市)に生まれました。生家は、武士ではなく苗字帯刀(みょうじたいとう)をゆるされた豪農で、農家の他に商家としての仕事もあり、そろばんや帳簿付けもやっていました。

豪農の家に生まれたものの武士にあこがれ、幼い頃から朱子学と剣術を学び、22歳のころ江戸に遊学。尊王攘夷にかぶれ倒幕をもくろみましたが、同志の尾高長七郎に説得されて断念し京へ逃げます。

しかし京では、江戸と違ってコネがない。そこで思い切って、当時、将軍後見職で京に常駐してた一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の用人平岡円四郎に保護を求めました。実は江戸にいるとき、商売を通じて渋沢と平岡は面識があったとされています。

平岡は渋沢に「一橋家の家臣にならないか」と声をかけました。なんとなんと!討幕を考えている渋沢に幕府側の人間が家臣にするというセンセーショナルなできごとが起こったのです。

一橋慶喜はその後、15代将軍徳川慶喜となり、1866年にはフランス皇帝ナポレオン三世からパリ万博に招かれることになりました。そこで慶喜の弟・徳川昭武(とくがわあきたけ)を名代として派遣される随行員の一人として、渋沢が選ばれました。

このできごとが、渋沢栄一の生涯を180度変えたといっても過言ではないのです。パリ万博の華やかさもさることながら、当時の先進都市パリを見て「日本もこのようにならねばならない」という思いを強くし、どのようにしたらなれるかを考え続けたそうです。

日本に帰国したら、そこには幕府はなく、明治新政府が成立していました。徳川家に対しての恩義も感じてはいたが明治新政府の呼びかけに賛同し、日本経済の基礎を固める仕事をします。でもそれだけでは資本主義を成立できないと思った渋沢は政府をやめ実業家になる決心をします。

不可能を可能にする「論語と算盤」の天才的発想

なぜ渋沢栄一は、新政府をやめ実業家になったか?

「商売を盛んにしないと国が豊かにならない」

このことは頭でわかってはいるものの、朱子学から抜け出さない元武士の新政府の官僚たちでは、自由主義経済を創ることはできない。「官僚と渡り合える商人たちを育てる」という思いを胸に、日本に初めて民間の資本からなる銀行を設立すべく、動くことにしたのです。

「商売は悪事」という偏見をもたらしている朱子学。けれども朱子学の根本である孔子儒教ではこのようには決めつけていません。孔子の言行録である論語では「商売のすすめ」ともとれる言葉がたくさんあるのです。

そして孔子に次ぐ聖人である孟子「恒産なくして恒心なし」(一定の職業や財産を持たなければ、しっかりとした道義心や良識を持つことはできないということ)という言葉を残しています。

つまり、安定した職業や財産を持たない人間は生活に追われるからしっかりした道徳心を持てないということなのです。

解釈の仕方しだいですが、「だからこそ、われわれは定期収入を得られる商売をおろそかにしてはいけない、孟子はそう言っている」と取りました。

「論語と算盤」の成立

「朱子学は武士の学問、ゆえに道徳心は武士だけが持ち農工商には道徳などない」というのがそれまでの考え方でした。そんなところから「商売は悪」とされ、商人は約束を守らなくても暴利をむさぼってもいいという風潮があったのは間違いないようです。

たしかに、商人のなかにも良心的で社会貢献をした人もいましたが、商工業全体の倫理ではなかったそうです。しかし、その全体を道徳的に変えたのは渋沢栄一です。

そうしないと外国の商工業者とは取引ができないのです。なぜなら彼らは契約を守ることは資本主義社会の最低成立条件だとしているからです。

渋沢栄一の「論語と算盤」は、武士道の気高き精神を継承するのに最適なものになりました。日本製品が今日、世界で高い品質を評価されているのもその証拠です。

約500社の会社を作る

民間人となり新設された第一国立銀行の頭取に招かれました。これを皮切りに様々な業種の会社を設立。東京証券取引所東京瓦斯東京海上火災保険王子製紙東急電鉄京阪電気鉄道帝国ホテル東洋紡明治製糖など、約500社の設立に関わったそうです。

最後に注目すべきは、こんなにも会社を作ったのにグループ化して財閥を作らなかったことです。これには商業道徳、企業倫理を確立することが生涯の念願であり、富を独り占めすることはしなかったのです。

「よく集め、よく散ぜよ」

渋沢栄一の人柄を良く表したと言われるのが、「よく集め、よく散ぜよ」です。銀行家としての栄一が『集めよ』と言うのは自然ですが、『散ぜよ』というのは、社会のためになる使い方をしなさいということを意味するのだそうです。

「金は天下の回り物」という言葉がありますよね。お金を「集め」、その大きくなったお金を「散らし」て回し、社会全体が潤う。

これが大事なことで、お金を独り占めしてお金の動きを止めてしまってはいけないということです。

コウカワシン

「気高き精神を持ち、商人の知恵を発揮せよ。」

これは渋沢栄一が残した「士魂商才」の意味ですが、まさに「論語と算盤」の真骨頂であるとわたしは思います。

『お金の日本史』の感想・まとめ

「渋沢なき資本主義」は「倫理なき資本主義」

渋沢栄一の「論語と算盤」は、両立するのか? 

そんなことを考える人は多いと思います。いわば「水と油」の関係であると思います。でも、お金を儲けることは重要ですし、ルールや礼儀なき商売は、とても信頼できないと思います。

戦後なら急激に工業化が進んだことで公害問題がありましたし、現在でも偽装とか不正などの不祥事の話が絶えません。お金儲けとはいえ倫理的に間違ったことは、決して許されるものではないし、落とした信用は挽回するのが難しいでしょう。

そういった意味で、「論語と算盤」は、われわれが絶対守るべきルールを教えてくれている気がします。

本書は、「日本人とお金」の関わりを見るのに最適であると思われます。朱子学にかぶれて経済オンチと言いましたが、そのおかげで現在まで至る日本人気質が生まれたのも朱子学との距離感が絶妙だったからでしょうね。

それを知るのに最適な一冊です。

コウカワシン

最後までお読みいただきありがとうございます。

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

四国在住。
ミニマリスト。趣味は映画観賞と音楽鑑賞、読書、野球観戦。
映画は特に好き嫌いなくほとんどのジャンルーを観ます。音楽はジャズとクラシックが大好きです。読書は歴史書が好きでよく読みます。

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次