『阿呆のすすめ』はどんな本?


『阿呆のすすめ』は、ズバリ!「賢い阿呆が幸せ」というのがわかる本です。
本書はこのような本
『阿呆のすすめ』と、なんだかスゴイ名前の本書ですが、この「阿呆(あほう)」とは、宗教思想家でもあり、仏教を中心とした宗教の真髄をわかりやすく語るひろさちやさんの提唱する仏教人としての処世術を指します。
いつも損得を考える「賢い人」は、「世間の目」を気にし、それに悩み心配ばかりしています。いっそ「世間の目」なんか気にせず、損得も考えずに生きれたら・・・つまり「阿呆」になれたら、「この世はパラダイスだよ」という感じです。
そのような心境になれるヒントを本書では示してくれます。
つまり本書は、悩みや心配事にいちいち苦しむより、「そんなものを捨てて楽になりましょ」と導いてくれる本です。
本書はどのような人におすすめか
こんな人におすすめ!
- 何をするにも他人の目が気になる人
- 将来を不安に思う人
- すぐ自分と他人を比べてしまう人
『阿呆のすすめ』の要点は?


「頭のいい生き方」をやめる
「世間の知恵」と「般若の智慧」
そもそも、この世に生きるものは、人間であれ動物であれ、「世間の知恵」を持っているといいます。
たとえば、結婚相手を探している女性が、財産を持っている男性に近寄るのも、サバンナの草食動物が、ライオンに近寄らないのも「世間の知恵」なのです。
つまり、「知恵」というのは、自分が損をしないためのものなのです。
では「般若の智慧」はというと、「世間の知恵」とは違って、損得を考えに入れないということだそうです。
仏教では、「世間の知恵」を「分別智(ふんべつち)」といいます。われわれの日常では、分別のあることはいいことのように思われますが、仏教では「分別してはいけない」と教えています。
「般若の智慧」は、分別しない智慧という意味で「無分別智(むふんべつち)」といいます。
仏教で、分別とは、分ける必要のないものを分けることを意味します。
たとえば、ある水族館で飼育している魚のえさに金魚を与えていたら、それを見た来場客から「金魚がかわいそうだ!」と抗議がきたのですが、それで、与えるえさをドジョウに変えたら抗議が収まったそうです。
でも、それではおかしいですよね。
ドジョウなら良くて、金魚ならダメというのは、同じ生き物なのに分別してるってことになります。
そこで、無分別という分けない考えが大事なのです。
そして、こうした分別があるかないか、それが「賢い人」と「阿呆」の違いなんです。
無分別なら「般若の智慧」もつ「阿呆」、分別するのが「世間の知恵」で生きている「賢い人」ということなのです。
この違いは歴然ですね。ではなぜ「阿呆」は「賢い人」になろうとしないのでしょうか?
とかく「賢い人」というのは損得とか優劣を考えます。
「学校の成績が悪ければたくさん勉強して良くしたい」「会社でもらう給料が少なかったらいっぱい残業して増やす努力をする」など、
成績が上がれば「優等生」、お金のためにもくもく働く「勤勉な人」がここで生まれるわけです。
では、何と比べて「優等生」、「勤勉な人」となるのでしょうか?
引き合いにアリの集団を例にあげますと、勤勉なのが2割、ふつうに働くのが6割、あとの2割は怠けものなのだそうです。
そこで上位2割の勤勉なアリばかりにしたところ、また同じ割合で、勤勉・ふつう・怠け者に分かれ、逆に怠け者ばかり集めてもそのような割合で分かれるという研究成果が出たそうです。
人間だって同じことが言えますね。
優秀だったものばかり集めてくると、その中に怠け者に変わる人が出てくる。
つまり「優等生」や「勤勉な人」というのは、その場に「劣等生」や「怠け者」がいるから、その地位を確立できるのです。
人と人との出会いは縁によって結ばれ、仏教では「ご縁の世界」といいます。ご縁の世界により人間は優等生にもなり、勤勉な人にもなれるのです。
「世間の知恵」の損得ある分別の中に生きれば、向上心というおもりを背負い悩み苦しむのは必定ですね。
「般若の智慧」を持つ阿保になれば、そのようなことで悩む必要がないのです。



人はなぜか他と比べたがります。比べるから悩んだり苦しんだりします。
無分別智で生きれば、そんな思いをしなくてもいいんですよね。
日本人の4つのタイプ
日本人には4つのタイプの人がいます。
「賢い賢者」「阿呆な賢者」「賢い阿呆」「阿呆な阿呆」
「賢い賢者」は、「世間の知恵」ばかりで生きている人
「阿呆な阿呆」は、なにも分別しない「般若の智慧」を持つ人
その中間が「阿呆な賢者」と「賢い阿呆」になります。
わかりにくいので日本人と仏教人という単語を当てはめてみます。
- 「賢い賢者」=「日本的な日本人」
- 「阿呆な賢者」=「仏教的な日本人」
- 「賢い阿呆」=「日本的な仏教人」
- 「阿呆な阿呆」=「仏教的な仏教人」
「仏教的な仏教人」ってなんだかすごそうですね。
思い浮かぶのは、「放浪の画家、山下清」でしょうかね。
何にも縛られず、天真爛漫な生き方をされた山下清画伯は、「阿呆な阿呆」という称号に値すると思いませんか?
山下清さんのあの人柄に触れると、なぜか他の人まで朗らかになりますよね。ああいうのが人徳というのでしょうね。
「阿呆な阿呆」・・・理想的ですが我々のような一般人ではハードルが高すぎます。
ですので、「日本的な仏教人」である「賢い阿呆」を目指していきたいものです。
これは、何を意味するかというと、「世間の知恵」を持ち損得でものごとを考えない人間ということです。
「損得で物事を考えない」=「悩みや苦しみから心を開放する」ということなのです。
ひとつ良い例を紹介します。
ひろさちやさんの息子さんは、ガラガラの電車に乗っても座席に座ることをしないそうです。
ガラガラなんだから座席に座り、込んできてお年寄りとかが乗ってきたら席を代わってあげても良さそうなものですが、頑として座りません。
代わりに若い人が座ってもお構いなし。一見、変わり者に見えますよね。
立ちっぱなしは疲れるし、損であるともいえます。けど、それは自分ができる損なんですよね。
損になることをいとわないのは「阿呆」がすることであり、満員になってから席を譲るのは賢い考え方です。
この行動は、仏教用語で「布施」ということです。
お金を出すことも「布施」ならば、席を譲ることも「布施」です。
もし電車が満員になれば、席を譲ることができますが、そうでなければ布施はできません。
また「布施」できるかどうかなんて考えるだけでも悩みって、できますよね?
なら、最初っから立つことを選ぶのは「布施」をしたという意味において理にかなっているのです。
そりゃ、空いた席に座る若者だって、「席を譲る」ということを考えていると思います。
でもそれは、その日の体調にもよるし、疲れた体を休めたいなら仕方ありません。
それを、道徳として一律に「若い人は席を譲りましょう」と教えるからおかしくなるんです。
日々が不幸せに感じる人ほど、道徳という名の損得を持ち出してくるのでしょう。
できるだけ日々を心穏やかに幸せに過ごし、自分にできる損があれば、やればいいのです。
ここでひとつ注意点があります。
それは、「損して得とれ」の考え方ではないということです。今どういう損をしたらいいか、自分がどれだけ損ができるかなんて考えるのは「賢い人」がやることです。そのような分別をしてしまうと万事、悩みが尽きないことになります。
損したことで幸せになれるかなんて、その時にはわからないもの。
毎日を幸せに生きることが自分ができる布施をすることができるのです。



損得勘定は、人の感情にも大きな影響を与えます。
そのようなものは抜きにして「利他の心」で生きれば、何のストレスも起きないでしょうね。
無分別智を磨く方法
1.問題を解決しようとしない
「分別智」、つまり「世間の知恵」は、問題解決のための知恵ということです。
たしかに問題を解決するのは間違いではありませんが、すべての問題が解決できるとは限りません。
「解決できない問題」に頭を痛め悩み苦しむ人は数知れないのではないですか?
「嫁姑の問題」、「子供の不登校の問題」そして「国家間の問題」もそうですね。
「子供の不登校」を解決しようとすると無理やり学校に行かせるという発想になる。でもそれは、おとなしく学校に行くのがいい子で、不登校は悪い子という分別になる。結果、親と子供が大ゲンカになるんです。子供だってそう簡単に割り切れないから苦しんでいるのです。
そんな場合は、引きこもりを治そうなんて思わず、徹底的に引きこもっていたらいいのではないですかね。
時間が経てば、心境の変化があるかもしれませんし、親だっていつまでも元気なわけではありません。となると引きこもれなくなりますよね。どっちにしても明日のことなんか考えてもしかたがないという気持ちでいればいいのです。
これを「明日できる仕事を今日やるな」といいます。
もっと阿呆になって問題解決をしない智慧を磨いていこうではありませんか。
2.希望を持たない、反省しない
「希望を持つ」って、いろいろありますよね。
マイホームを持ちたい、高級車に乗りたいというのは、希望という名の欲望で、賢い人が考えることです。
それから「反省をしない」というのは、「反省したところで過去を作り変えることはできない」という発想からです。
世の中は、失敗が成功のもとになるより、成功が失敗のもとになることが多い。なぜなら、同じ条件の下で同じチャンスがくるとは限らないからです。つまり「過去の失敗なんてほとんど参考にならない」ということなのです。
だから言えるのは、「失敗したからといって過去にとらわれることなく、今に集中する」ことが大事なのです。



「問題を解決しようとしない」、「希望を持たない、反省しない」など、どちらも無茶苦茶な発想に見えますが、ものごとに執着しないということだと思います。
合理的であるといえますね。
先の心配なんてしなくていい
将来のために生きるな
皆様は、将来のためにしていることはありますか?
この先が見えない未来に「転ばぬ先の杖」を施している人は多いと思います。
「病気になったら大変だと生命保険にいくつも入る」とか「老後が心配だから老後資金を貯める」、「火事になったら一大事と火災保険に入る」とかいろいろやっていますよね。
それにも増して「自分の葬式費用をまかなうための保険」に入っている人までいると聞きます。
おもしろい話があるので紹介します。
戦中戦後のドイツでの話です。
父親が死に、その財産を半分に分けて相続した兄弟がいました。
兄は相続した財産をすべて貯金し、さらにそれを増やそうと懸命に働きました。
弟は、ひどい飲んだくれで、相続した財産はすべてビール代に消えてしまいました。
やがてドイツは敗戦を迎えます。その後のドイツは物資や食料の不足に見舞われ、約一万倍というインフレが巻き起こります。
その結果、兄はせっかく貯めた財産が、あっというまに紙くず同然となります。
一方、弟は山のようにたまったビール瓶が高値で売れ、大もうけしたとのことです。
兄にとっては、たまったものではありませんが、「将来に備える」ことに注力したため現在をおろそかにしたのがまちがいだったのです。
未来は誰にもわかりません。そんな未来のための不確定なもののために投資をするより、弟のように現在を楽しんだ方がずっと良かったのではないでしょうか。
日本でも敗戦後には、同じことが起こりました。日本では「備えあれば憂いなし」がふつうです。「賢い賢者」、もしくは「日本的な日本人」なら絶対にそうします。
けど、将来のことばかり大事にするのもいいけど現在だって同じくらい大事にする必要があることを考えるべきだと思います。
備えあれば憂い増す
聖書にはこんな一節があるそうです。
だから、明日のことまで思い悩むな。
『新約聖書』「マタイによる福音書」(6.34)
明日のことは明日、自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
「明日のことは考えるな」ということです。
キリスト教ばかりではなく、お釈迦様もこう言います。
過去を追うな。
『一夜賢者経』「中部経典」131
未来を願うな。
過去はすでに捨てられた。
そして未来はまだやって来ない。
だから現在のことがらを
それがあるところにおいて観察し、
揺らぐことなく動ずることなく、
よく見きわめて実践せよ。
ただ今日なすことを熱心になせ。
お釈迦様も過去と未来を考えるなと言い、現在をどう生きるかが大事だと述べています。
宗教にかぶれろとは言いませんが、明日を考えることの無意味さは、このコロナ禍で思い知った方も多いのではないでしょうか。
「賢い賢者」ではなく「阿呆」でいることの重要さをキリスト教も仏教も教えてくれてます。
ぶっちゃけた話、「未来を自分が変える」なんていうのは「シンククリアリー」でも言ってるように土台無理なんですから。
今日を生きる阿呆の楽しさ
「賢者」は夢を語ります。
たとえば、「金を貯めて5年後に会社をやめたら、アメリカに渡って世界を股にかけた新しい事業を始めます」と。
目標を持つことは良いことでしょう。
けど、5年後って、どうなっているのでしょう?
お金は貯まっているのでしょうか?
アメリカは、今と変わらず覇権国として君臨している保証があるのでしょうか?
そもそも5年後、その人は生きているのでしょうか?
だったら、ひとつ提案があります。
そこまで考えてるなら・・・今やっちゃったらどうですか!
これぞ、今日を生きる「阿呆」の楽しさだと思います。
無責任かもしれませんが、5年先にはその熱い思いが冷めちゃってるかもしれませんよ。
今から考えて考えて実現したい事に向かって行動を起こすことがとても楽しい日々を過ごせると思うのです。
向上心のためにやるのではありません。
やりたいからやるだけです。
それが阿呆の生きる道です。



先の心配をしても思い通りになる保証はありません。
そして将来は「今からの積み重ね」で、成り立つものだと思います。
だから将来のことを思いあぐねる前に、今できることをしっかりやりましょう。
『阿呆のすすめ』の感想・まとめ


「今が人生で一番いいとき」
『阿呆のすすめ』・・・「悩み」を捨てる生き方として、仏教の教えを説かれた本です。
この世の中では「先見の明」があることが良いとされています。たしかに先々を考えて布石を打つことが功を奏するかもしれません。
しかし、それを楽しんでやれているうちは良いかもしれませんが、それが悩みの種になったり苦しみになったりするのであれば、何にもなりません。
将来のことを考えるのも大事ですが、「今」を犠牲にしなければいけないのでは、人生何が楽しいのでしょうか?
本書どおりのことは、たぶんやっていける人はいないでしょう。
けど、モノの考え方として理にかなっているというか、納得させられました。
「ある程度の備え」だけ確保して、必要以上な防備(たとえば、保険やリスクをカバーできないほどの投資)をするのは、ある意味、欲望だと思います。
その欲望のために時間を犠牲にして、苦労を背負うよりも「今」を自分や自分の大切な人のために使うことが、有意義なのです。
その処世術を一度、読んでみるのも悪くないと思いますよ。
『阿呆のすすめ』の概要


本書の目次
『阿呆のすすめ』
まえがき
序章 もう、「頭のいい生き方」はやめましょう
1章 こんな時代は「阿呆」こそ幸せ
2章 相手に悩ませておけばいい
3章 将来のために「今」を犠牲にしなくていい
4章 理想と「今ここにいる自分」を比べなくていい
5章 先の心配なんてしなくていい
著者の紹介
ひろ さちや
1936年大阪市生まれ。東京大学文学部印度哲学科卒、同大大学院博士課程修了。
気象大学校教授を経て、大正大学客員教授、宗教文化研究所所長。
『仏教の歴史』(全10巻)をはじめ、『仏教と神道』『日常語からわかる仏教入門』『仏教が教える人生を楽しむ話』『なぜ人間には宗教が必要なのか』『ポケット般若心経』など多数の宗教啓蒙書や人生論で幅広く活躍した。
2022年4月死去。


コメント