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人生のターニングポイントを乗り越えるには「自分の軸」が大事!

コウカワシン

こんにちはコウカワシンです。

今回は、斉藤孝(さいとう・たかし)さんの著書『自分に軸を通すブレない生き方』から学ばせていただきます。

「人生は山あり谷あり」

突然ですみませんが、長い人生を思い起こせば、数々の苦難がありますよね。

「あの時、ああすれば良かった、こうすれば良かった。」と後悔することもあったと思います。

人間には感情があり、後悔したことも「反省する」という特技で、乗り越えていくことができます。

けど、あっちへフラフラ、こっちへフラフラでは、自分の行くべき道が定まりません。

やはり、「自分のポリシー」は持たなくてはいけません。

自分のポリシーといっても、まだ定まっていない人も多いのではないでしょうか?

自分のポリシーも自分自身の経験値によってわかるものもあるし、「先人のたどった道」すなわち伝記を参考にする方法もあります。

そんな中で、良い本がありました。

『自分に軸を通すブレない生き方』

斎藤 孝 著

斎藤先生は、テレビでも有名な教育学者で書籍もたくさん出されています。
(「声に出して読みたい日本語」「鈍感になる練習」「10歳若返る会話術」「どんな場でも「感じのいい人」と思われる大人の言葉づかい」「小学校では学べない渋沢栄一のやりぬく力」「知的な話し方が身につく教養としての日本語」「頭がいい人のモノの言い方 デキる!と思われる45のフレーズ」「頭のよさはノートで決まる」「本には読む順番がある」など多数)

斎藤先生の著書からこの『自分の軸を通すブレない生き方』を選んだ理由は、偉人たちの行動も我々のような現代人とかぶる部分が、かなりあったからです。

今回は、斎藤先生の『自分の軸を通すブレない生き方』から学ばせていただきます。

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目次

『自分に軸を通すブレない生き方』はどんな本?

本書の目次

『自分に軸を通すブレない生き方』

まえがき

ピンチを切り抜けるリスク処理能力《伊達政宗》
退路を断ち、単独者として生きる《葛飾北斎》
上司に見込まれる力《北里柴三郎》
左遷に強い、折れない心《西郷隆盛》
需要を嗅ぎとるマーケティング術《菊池寛》
究極のコーチング《千葉周作》
人の目を引くプレースタイル《藤田嗣治》
人を呼ぶマルチな才能とプロデュース力《平賀源内》
自分の世界に没入する《南方熊楠》
「評価されない」をパワーにする《森鴎外》
自分本位でなく、仕事本位《高橋是清》
小さな成功をモデル化する《豊臣秀吉》

あとがき

『自分に軸を通すブレない生き方』の目的とターゲット

社会人は、それぞれ時期によって転機(ターニングポイント)があります。


その時、自分は、どういう道をとるか?

最良の道を見つけるために悩むとは思いますが、きっと自分に合った道があるはずです。

それは「自分らしい道=自分の軸」と呼べるのではないでしょうか。

でも、自分では納得いかないのに流されていく場合もあります。

どのように軌道修正するかは、「ブレない心」が必要になります。

つまり「自分の軸+ブレない心」がないと自分らしい生き方ができないと思います。

本書は、偉人を例にあげ、「自分の軸+ブレない心」を持つにはどうしたら良いかを参考にするのが目的です。

ターゲットは、

  • 自分の進むべき道がまだ見えない人
  • 壁にぶち当たるとなかなか立ち直れない人
  • すぐにくよくよ悩んでしまう人
コウカワシン

人間だれでも迷うことはありますよね。

20代なら20代の迷い、30代なら30代の迷い・・・。

それを切り抜けるにはギアチェンジしなければいけません。

けど、してはいけないのが「自分らしくない道へ脱線すること

軌道修正しながら「自分らしい道」へ戻るために先人の知恵を借りるのは有効な手段だと思います。

『自分に軸を通すブレない生き方』の要点

「対人関係」編

社会に出ると、起業するなり、企業に就職するなりの道を歩みますよね。

必ずあるのが対人関係ではないでしょうか?

「相手が顧客」、「相手が上司」、「相手が部下」などいろんなケースがあります。

理不尽な扱いをされたり、心ない言葉をかけられたり、こちらの言うことを理解してくれなかったりということは経験された方は多いのではないですか?

まずは、対人関係の問題から先人の知恵を借りましょう。

パワハラ上司「豊臣秀吉」から3度の危機を逃れた伊達政宗

戦国時代の覇者、豊臣秀吉に何度もにらまれたのにも関わらず、最終的にはギリギリの線で好かれ、ピンチを脱したその人が、独眼竜こと、東北の雄、伊達政宗(だてまさむね)です。

伊達政宗は、秀吉から計3度も問い詰められ、事としだいによっては、領地没収に切腹もありという危機を逃れました。

1回目は、「小田原・北条攻めに遅れてきた件」
2回目は、「一揆の扇動」
3回目は、「秀吉の甥、関白秀次との蜜月」

どう見ても、言いわけのしようがない場面ですが、政宗は、

  • 逆らうのではなく、非を素直に謝る
  • 器量を見せる
  • 周囲の心証を上げる

という3つの合わせ技で乗り切りました。

実際、秀吉の御前に出るときに

  • 「死装束」を身にまとい絶対服従の態度をとる。
  • 秀吉の愛好する「茶の湯」を千利休から学びたいと願い出る。
  • 影響力のある関係者(前田利家・浅野長政など)にプレゼントや手紙を送り根回しを計る。

など、策をこうじました。

コウカワシン

これを見て思うのは、「根回しと機転」ですね。

それと、こういう対応も、

跡取りのなかった秀吉は、甥の秀次を後継者とし関白にしました。ですがこの後、秀吉に実子秀頼が生まれ、秀次がじゃまになります。謀反の疑いをかけ、秀次を失脚させ、秀次の関係者も処分されます。その関係者の中に秀次と親しかった政宗がいたのです。

政宗は弁明で、「秀次様は、秀吉公ともあろうお方が関白にしたお方です。片目の自分が見誤るのは当然です。」

これには、さすがに秀吉もイタイところを衝かれたと思ったことでしょうね。結局、許してしまいました。

コウカワシン

その後、天下人となった徳川家康にも問い詰められることがありましたが最終的には可愛がられた政宗。

考えられるのは、「保身臭」がなかったからと斎藤先生は、言います。

最近、見る不祥事で、問題が大きくなるのは、決まって「言いわけ」から始まった時です。

保身のための言いわけは、良い印象を与えません。

謝る時は本気で謝らなければ物事は収束しないということなのですね。

親愛なる上司「コッホ」に見込まれた北里柴三郎

今から200年前のドイツに世界最高の細菌学者であるロベルト・コッホがいました。コッホの細菌研究所に日本からの研究性がいました。その人はのちに「日本細菌学の父」とうたわれた北里柴三郎です。

研究所に入った当初は、大腸菌やコレラ菌の純粋培養の実験ばかりやっていました。大事なことではあるのですが、決して面白い作業ではありません。

柴三郎は、コッホから、「連日、培養実験ばかりで飽きないかね」と問われると、

「いえ、基本ですから」と返しました。

ふつうなら、「こんなことをやりにドイツに来たんじゃねえ!」といいたいところですが、柴三郎は文句ひとつ言わず研究所に寝泊まりして実験していたそうです。

この姿勢がコッホに認められないはずがありません。そしてついに、

「きみに研究テーマを与える」

待ちに待った、コッホから柴三郎にミッションの発令です。

そのミッションとは、「チフス菌及びコレラ菌の含酸或いは含アルカリ培養基における関係」

他の同僚には与えられていないミッションを柴三郎が勝ち取ったのでした。

「高い志」「毎日でも徹夜する熱意」「基本をおろそかにしない姿勢」が評価され、コッホから見込んだ柴三郎へのプレゼントであるのは間違いないのです。

たとえ、今がたいくつでつまらない作業の毎日でも、それが「基本」ならば、ただの単純作業と思わず「思考を要する作業」と考えを置き換え、愚直に続ける。それがスキルアップとなり「ミッション」を呼び込む土台となる。

その後の柴三郎は、

与えられたミッションを寝食を忘れて実験に没頭し、研究成果をまとめて論文にしコッホに提出しました。するとまた、次のミッションを、というように繰り返し繰り返しミッションを与えられるまでに信頼を得たのです。

ミッションを与えられてから研究成果を論文にして提出するその早さはコッホをたいへん驚かせたそうです。そんな柴三郎だからこそコッホはますます頼りにし、さらなるミッションを与え続けたそうです。

さらに言えることとして、この柴三郎の加速度は、さらなるコッホの信頼を勝ち得ました。

ふつうなら、ミッションには期限があり、だいたいのビジネスマンなら「期限に間に合えばよい」と考えます。

期限は仕事上の都合であって与えられた人の能力で決められてはいません。

しかし、その期限よりも早くミッションを終えれたら、相手に対して好印象を持ってもらえ、さらにミッションを与えてもらうことができるのではないでしょうか?

部下が仕事ができるかできないかを見極めるのに上司はこういうところを見ています。上司から見込まれる存在になることは自分の市場価値を上げることにもつながるということですよね。

コウカワシン

最近「仕事がブラックだ」とか「ブラック企業に入ってしまって毎日、仕事がきつい」という声を聞くことがあります。
たしかに人間性を無視した過重労働はいけません。

しかし、その会社、上司が、リスペクトできる存在なら真摯に仕事に向き合うことが自分の能力を高めてくれるのではないかと思います。

北里柴三郎もコッホをリスペクトするがゆえ、努力できたのでしょうね。

パワハラ上司「島津久光」の仕打ちに耐えた西郷隆盛

明治維新というと大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛の3傑が思い出されます。

中でも、西郷隆盛がいなければ、ありえなかったとまで言われてます。

西郷隆盛は「すべてを始動させる原動力」として、周囲の人間から慕われ、信頼されていました。

いわゆる「熱い男」であったのだと思います。

西郷隆盛に関わりのある坂本龍馬は、「西郷というやつは、わからぬやつだ。つかみどころがない」続けて「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」といいました。

同じく西郷隆盛をよく知る勝海舟は、坂本龍馬の意見に同意し、「西郷は、どうにもわからないところがあった。まあ、大きな人間ほどそのようなもので、小さいやつなら、どんなにしたって腹の底まで見えてしまう。大きいやつになるとそうではない」という評価をしています。

それは、つまり「大きな人物=肚(はら)が据わっている」という解釈でいいのだと思います。

そのような西郷隆盛に影響を与えた人物というのが、名君とうたわれた薩摩藩主・島津斉彬でありました。

島津斉彬に見いだされた西郷隆盛は、江戸に同行し「庭方役」を拝命します。

本来なら、主君とはいえ、身分違いで、なかなか御前に出て話なんかできないのですが、斉彬も西郷にしばしば隠密行動をさせるなど大のお気に入りだったのだと思います。

島津斉彬を名君といわしめるには、西郷らの下級武士でも有能とあれば反対があっても登用し、攘夷派でありながら、様式造船、反射炉の建設、ガラスやガス灯の製造など、外国の技術を率先して取り入れる「先見の明」があったからです。

西郷隆盛は、島津斉彬からの「先を見通す力」「部下への接し方」といった帝王学を学んだといえるのです。

ところが、島津斉彬は、道半ばにして急逝してしまいます。

その後、薩摩藩の実権を握ったのが、弟の島津久光です。島津久光の評価は、いろいろと分かれるのですが、西郷隆盛とはそりが合わないのか、西郷を冷遇します。

31歳 斉彬急死の報を聞いて自殺未遂
32歳 久光に刃向かい、逆鱗に触れて島流し=左遷
35歳 いったん許されるもののやっぱり刃向かって島流し
36歳 島流しが「処分が軽い」とされ、極刑の流刑地だった沖永良部島に流され、わずか二坪ほどの牢屋に押し込まれた。

ここまでされたら、ふつうは腑抜けになりますよね。

でも西郷隆盛には島津斉彬から学んだ帝王学を胸に秘め、「人を相手にせず、天を相手にせよ」という使命感を持ち続けたのです。まさに鋼のメンタルを持っていた方なのですね。

ここで言えること!

常に、「自分はどうあるべきか?」「自分が納得できる生き方は何か?」「本当に言いたいこと、やりたいことは何か?」と考え続ける人は何があってもブレないし、機が熟したら大きな仕事ができる人なのだと思います。

そして、冷遇されても「自分の境遇は他人のせいではない。自分の姿勢の問題だ。」と責任自分論で考えることです。

コウカワシン

上司から冷遇されてつらい時期を経験する人は多いと思います。心折れそうになることもあることでしょう。けど、腐らずに地道に努力すれば、潮目が変わる時がやってきます。その時まで、耐える「鋼のメンタル」を持ちましょう。

「キャリアアップ」編

自分のキャリアをアップさせるとき、ある程度の覚悟を胸に秘めるのではないでしょうか?

どのような分野でも「他にはないもの」を身に付け自己を高めることを念頭に置く。

このように考える人は多いと思います。

ですが、階段を一歩一歩上がっていくようにステップアップするのは、つらいことです。

技量の習得には、自分を追い込む必要があります。

乗り越えるためのマインドを先人から学びましょう。

退路を断ち、単独者として生きた葛飾北斎

江戸時代の化政文化を代表する絵師・葛飾北斎は、浮世絵の勝川派、勝川春章(かつかわしゅんしょう)の弟子になりますが、過剰な探求心ゆえ、他流派や他の作風に目を向けたり、屏風絵で有名な狩野派の技法を学んだりしました。

それを師匠の勝川春章が黙っているはずがありません。絵に対してサボっていたわけではなく、他流派からも熱心に学ぼうとし、その勉強熱心さが師匠や一門の反発をまねき葛飾北斎は、破門される羽目になりました。

一門は、版元と手を組み作品を商品化していたので、破門されるということは、絵では到底食べていけないのと同じです。

ふつうなら、一門に詫びを入れて破門を取り消してもらえばいいのですが北斎は、それをしませんでした。

北斎は覚悟を決め、鬼気迫る修行を始めたのです。朝早くから夜遅くまで筆を取り、腕がなえて、目が疲れて初めて筆をおく、食事は飢えと渇きをしのぐだけという生活を生涯つづけたとのことです。

それは孤独な作業だったでしょうけど、「単独者」として生きる決意をしたのです。

そしてだれにも頼らず自己プロデュースするアーチストが誕生したことを意味するのです。

浮世絵とは畑違いの琳派に学び、錦絵や挿画を手がけ始める。画だけではなく、戯作という文章にも挑戦。ただ、戯作だけは才能がないと悟り、すぐに手を引くが、チャレンジ精神旺盛な毎日を過ごしました。

常に流行のトップに目を向け、読み本が流行れば読み本の挿画。狂歌が流行れば狂歌絵本と絵のジャンルや画法にもとらわれず、ただただ挑みつづけたそうです。

生活のゆとりは生涯なかったけど、チャレンジ精神が衰えることはなかったそうです。

その画風は、幅広くて精密。人物を描かせれば今にも動き出しそうな躍動感がある。まさに北斎のすごみが伝わってくるようです。

ここで言えること!

勝川春章一門の庇護を受けられない北斎は、フリーランスであり自己プロデュースしなければ、将来もない状況でした。
けど、退路を断ち、新しいものを学び、絵を描くことに没頭する。
そのことは現代で言うキャリアアップとよく似ている気がします。
うまくいくコツは「区切ること」
「この時期にこれを機会としてワザを磨く」
この積み重ねが、「富岳三十六景」という大作を完成させることになったのです。

コウカワシン

苦しくても、たとえ周りが、味方にならなくても、自分を信じ、最大のチャンスとする。
葛飾北斎は単独者マインドを持ちながら、さらなる技術の習得、自己プロデュースを高めながらキャリアアップしました。
もし今、目標に向かいながらも心に引っかかるものがあるのなら、思い切って断ち切ってしまうのも一つの手だと思います。

「マインド」編

政治家に必須のグランドデザイン力を有する豊臣秀吉

織田信長の遺志を受け継ぎ天下統一した豊臣秀吉は、最もグランドデザイン力のある政治家としても評価されています。

グランドデザイン力とは、大きな枠組みを創造する力のことです。
それは壮大な図案、設計、着想や長期にわたって遂行される大規模な計画を指します。

ちょっと抽象的になりましたのでたとえを入れると、「日本国中をリニア新幹線で結ぶ」的な感じでしょうか。

秀吉が行った政治で特筆なのが、

  • 刀狩り
  • 太閤検地
  • バテレン追放令

ですね。

刀狩りと太閤検地はわかるけど、、、バテレン追放もなの?

という声はあると思いますが、秀吉の考えの中には、「このままキリスト教がひろまると洗脳され「心の植民地化」が起きるかもしれない。民の心は、外国の思い通りにはさせない。」が、あったに違いありません。 

江戸時代に入り、キリスト教の禁止・鎖国など、今となっては賛否が分かれるところですが、そのことが、今に続く日本人の特性を形作っていることは間違いありません。

その基礎になったのは豊臣秀吉で、徳川家康と代々の将軍は、それを継承し整備したのです。

豊臣秀吉は、費用対効果を第一に考えて行動するという武将でもありました。

「合理的にことを運ぶにはどうしたらいいか?」

戦国で勝ち抜くには、相手を倒すか屈服させるのが目的ではありますが、味方を失うと大きな戦力ダウンになります。

いかに合理的にことを運べるかが明暗を分けます。秀吉は、その感覚がとても優れているのです。

たとえば、清須城の塀の普請で見せた、「100間を10組に分け、互いを競争させる」考え。それによりいつまでたっても終わらなかった普請がたった3日で終わったという事実は、秀吉の合理的なところを物語るものです。

このエピソードには2つのポイントがあります。

  • 組織化
  • 経済感覚

組織化することで、労働を合理化し、競争化することで、作業スピードをアップする4.それにより工期が短くて済み、費用を抑えることができる。

この合理化策は、後々の秀吉の最大の武器になります。

つまり戦を力合戦から頭脳合戦に、「デザイン・進化」させたのです。

他の武将は、交戦を好みますが、秀吉は、その時その場面で、戦い方を変えます。

水攻め・兵糧攻めが多いのも特徴ですね。いかに「戦わずして勝つ」にこだわったかがわかります。

鳥取城を包囲して兵糧攻めにした戦では、攻め込む前から行動していたといいます。

鳥取に商船を送り込み、現地の米を倍の価格で買い占めます。誰の仕業か、鳥取城に備えてあった兵糧米も売り払われたという話もあるくらいです。さらには、農民を城に逃げ込むようにしむけ、鳥取城の籠城人数を増やしました。

準備が整ったところで、大軍で取り囲みます。城内では、食べ物がなく飢餓状態。降参するしか手がありませんでした。
秀吉は自軍の損害もなく、難攻不落といわれた鳥取城を陥落させたのです。

ここで言えること!

どのような仕事でも言えることですが、グランドデザインができるかできないかでその後の仕事の効率がまったく違ってくるということです。

目先の利益ばかり見ていないで、どのように考え行動すれば、長期的な繁栄ができるかで、その人の評価が高まると思います。

部下を使う場合でも、効率よく配置することで仕事の進捗が上がるのではないでしょうか? それにより組織自体の評価も上がり、満足いく成果も付いてくると思います。

その点において、豊臣秀吉という人物は、現代に生きていても日本を動かせるだけの人材として君臨すると思います。

コウカワシン

天下人・秀吉は、何からも貪欲に学び、常に効率化に前向きな人でした。これは秀吉の出自が貧農出というのが大きく関わっているのだと思います。ですから頭を使い合理的な考えを実践できたのです。
われわれも、この柔軟な考え方をあやかりたいものですね。

『自分に軸を通すブレない生き方』からの学び

先人の素晴らしさを再確認しました。

どの方も一本筋が通り、苦難を乗り越えてでもやり遂げたいという意思が感じられました。

本書の要点は、「人生の転機にいかに行動するか」です。

ポイントは、

  • 今の社会と自分をすり合わせてみる
  • やみくもなエネルギーを投じてみる
  • 先人の足跡を参考にする
コウカワシン

時代が変われど、先人たちの歩んだ道は参考になり大きな学びとなりました。

『自分に軸を通すブレない生き方』感想・まとめ

朝言った言葉が、夜には変わる。

そのようなことを経験したことはないですか?

人間だれでも弱い部分はあり、流されてしまうことがあります。

それに気づき、「このままではいけない」と思うのは、大事なことです。

でも、実際に立ち戻ろうとしても、なかなかに困難な場合があります。

しかし、自分の中に軸が通っていれば、何年かかっても戻ることができると思います。

先人たちもわたしたちと同じく、山あり谷ありの人生を歩いてこられたことは本書を読んでもわかります。

そのような先人たちが克服した生き方をぜひ読んでいただきたいと思いました。

コウカワシン

最後までお読みいただきありがとうございます。

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この記事を書いた人

四国在住。
ミニマリスト。趣味は映画観賞と音楽鑑賞、読書、野球観戦。
映画は特に好き嫌いなくほとんどのジャンルーを観ます。音楽はジャズとクラシックが大好きです。読書は歴史書が好きでよく読みます。

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