
こんにちはコウカワシンです。
今回は、童門冬二(どうもん・ふゆじ)さん著書の『江戸 人遣い達人伝』から学ばせていただきます。
2月より始まったNHK大河ドラマ「青天を衝け」は、日本の❝資本主義の父❞といわれた渋沢栄一氏の生涯を描いています。
現段階の放送では、幕府に仕える前の藍玉や養蚕を営む富農の若きリーダーとしての血気盛んな渋沢氏を見ることができます。
今後、どのような展開になるのかが、とても楽しみであります。
さて、江戸幕府が終焉し、明治維新になったのは、外国からの圧力があったのが、きっかけでありましたが260年あまり続きました。
その長い年月の間にも、いろいろな危機があったと思います。
たぶん、渋沢氏に負けないくらいすごい人がいたのではないかと考えました。
そんな中、見つけたのが、童門冬二先生が書かれた、
『江戸 人遣い達人伝』
パラパラとページをめくっていると名前を知ってる人物はもちろん、知らない人もかなりあり興味を惹かれました。
『江戸 人遣い達人伝』はどんな本?
本書の目次
『江戸 人遣い達人伝』
まえがき/江戸に学べ
第1部 人を動かす
- 藤堂高虎(がまん鬼・二番手主義で自己を活かす)
- 佐竹義宣(常陸から秋田へ転封を機に幹部を一新)
- 徳川光圀(儒学の基本・仁の徳で民を治める)
- 陶山訥庵(対馬聖人と呼ばれた農業改革の実践者)
- 大岡忠相(忍・耐・恕を心に刻む)
- 稲生若水(日本産「薬草」研究の先覚者)
- 山家清兵衛(政争のなかで忠義を尽くす)
第2部 やる気を育てる
- 川崎平右衛門(荒廃した新田に若者を呼び戻す秘策)
- 園井東庵(徳が徳を掘り起こす)
- 松居遊見(自分の古さを殺し、新しい自分を生み出す)
- 小田清兵衛(一商人に任された貧村の再建計画)
- 吉田清助(女性の向上心を生かして危機脱出)
- 食野次郎左衛門(ヒントを与え、解決は従業員の手柄に)
- 升屋小右衛門(再建を成功させた唯一の掟)
第3部 壁を破る改革者の条件
- 天野康景(人事管理の天才・徳川家康に黒星をつけた男)
- 田沼意次(常識・因習への果敢な挑戦者)
- 阿部正弘(人材登用・言路洞開の開明策を断行)
- 井伊直弼(幕藩体制の再強化を敢行)
- 島津久光(幕藩連合政権を企てた冷徹な知略)
- 大久保利通(人間関係より組織目的を大事にした「知型」
あとがき/日本道の創造に向けて
本書の目的とターゲット
本書の目的は、アメリカで盛んとなった「顧客満足」や「従業員満足」の精神が実は、日本の江戸時代発のものではないか?
ということにスポットを当て、江戸時代の功労者の方の足跡をたどろうというものです。
ターゲットは、
- 次世代リーダー
- 若手経営者
- 若手社会人
- 社会人



今ほど、情報が流通していない時代に、いろんなことを成し遂げるには、優れた思考力と並々ならぬ精神力があったと思われます。
老いも若きも何事にもくじけない精神力と思考力、そして人に対してのやさしさを先人から学ばなければいけませんね。
本書の要点
目次を見ていただいてもおわかりのように「徳川光圀」「大岡忠相」、❝青天を衝け❞でもおなじみの「阿部正弘」「井伊直弼」これから関わってくるであろう「島津久光」「大久保利通」など、どの方も素晴らしい功績をあげられた方ばかりです。



わたしの独断でですが、「治療費を取らない医者」として有名な園井東庵を取り上げてみたいと思います。
園井東庵(そのいとうあん)
治療費を取らない医者
園井東庵は、江戸中期に筑後国上妻郡福島町(現・福岡県八女市)生まれで、35歳で医師を目指し京に上りました。
その後、各地を放浪し、摂津国麻田(現・大阪府豊中市)の麻田藩の藩医となりました。
医師不足の時期だったので、まわりの住人からも重宝にされていたのですが、この東庵先生は、貧乏な人からは、治療代を取らないという奇特な方で、逆に「そんな貧乏では、さぞかし日々の暮らしにも困るだろう」といって米や薪などをもたせたそうです。
これも、藩医で定期的な収入があったからできた事なのですが、なかなかできることではないですよね。
ある日、殿さまが「ほうびにこれをやる」と、衣服をくれたのですが、その帰り道、道ばたに物乞いがいて、東庵先生は、その物乞いに、殿さまからもらった衣服を与えてしまったのです。
ところが、役人たちが「いかに人がいいとはいえ、殿さまからいただいた衣服を物乞いに与えるとは何事だ。」と騒ぎ出したのです。
東庵先生は、夜逃げをして今まで住んでいたところから数理離れた岡という村に移りました。すると、すでに有名人になっていたせいかその岡村では大歓迎ですぐに家を用意してくれたのです。
金持ちの命の値段
その岡村でも東庵先生は、前と同じような治療をはじめました。
しかし、もう藩医ではなくなったので定期的な収入がありません。そのような状況でも治療代を取らず、ものを与えるからいつもピーピーしていたのです。
それを見かねた村人が、六右衛門というお金持ちが、長い間、病にかかっていて、いくら医者にかかっても治らない。東庵先生が治したら、お礼をたくさんもらえるのでは、と言いました。
東庵先生、それを聞いて喜び勇んで六右衛門さんのところに行き、治療をするとすぐに治りました。
治療代を受け取る際、東庵先生はお代を受け取らないという先入観から、六右衛門さんは、一両だけ差し出したのですが、これに東庵先生は、怒りました。
「ふざけちゃいけない。あなたほどの金持ちを治したんだ。たった一両とは、ずいぶん安い命だな。」と。
これに恥じた六右衛門さんは、東庵先生を誤解していたことに気づき、
「わたしがバカでした。たくさんのお礼は先生がお怒りになると思い、一両を差し出しました。お詫びの印にどんなことでもいたします。なんでも言いつけてください。」
と、言いました。
東庵先生も機嫌を直し、
「いま、おれは米屋や薬屋に莫大な借金をかかえている。これを全部払ってくれ」
六右衛門さんは、
「承知いたしました」
といって、東庵先生の借金を全部返しました。
東庵先生は喜び
「あなたは幸せだ。病気が治っただけではない。あなたが払った借金は、じつはこの近辺の何十軒もの貧しい連中に渡した米や薬の借金だ。それを払ってくれたんだから、きっとあなたに余得が訪れて、これから20年も30年も長生きできるよ」と。
おべんちゃらではない東庵先生の気持ちに、六右衛門さんも喜び
「あなたのような先生が、この地域に来てくださってたいへんにありがたい。ずっといてくださいね」と頼みました。
東庵先生も「あなたのようないい人ばかりだから、ここは居心地がいい、ずっと暮らさせてもらうよ」
とニッコリ笑ってうなずいたのです。
逃げまわる東庵
この話は、たちまち前のところにいた殿さまの耳にも入り、殿さまは、えらく後悔されたそうです。
自分が与えた衣服を物乞いにやってしまったと東庵に詰問した部下を叱りつけ、もう一度、東庵を呼び戻せと命じました。
部下は、東庵先生のところに出向き、「戻ってきてください。」と頭を下げてお願いしましたが、のらりくらりと返答を逃れ、また岡村もあとにしました。
部下は、トボトボと殿さまのところに戻りましたが、困ったのは岡村の人たちです。
捜しまわって、とね山という村にいることがわかりました。
岡村の人たちは、「岡村に戻ってきてください。お侍さんは、二度と来ませんから」といいましたが、東庵先生は、
「いったん、目についたからには戻れない。ここで暮らす」と。
村人は、「では、向こうの家に残してきた家財道具はどうしましょう?」と聞いた。
「わたしは、あの家を捨てて逃げてきたのだ。だから、家は自分のものではない。中の道具も自分のものではない。あなたたちで勝手にしてくれ」
村人たちは、困り果てましたがしかたなく家財道具を売り、お金に変えました。それを持って東庵先生のところにいっても
「そのような金は、受け取れない。あなたたちで自由に使いなさい」と突っぱねました。
なおさら、困った村人たちは、相談しその金で田畑を買い、共同で耕しました。するとその田畑からはたくさんの農作物ができ、売ると莫大なお金になりました。
村人たちは、こんどこそ儲けたお金をもらってほしいと東庵先生を訪ねましたが、受け取りません。
「あなたたちはなんと欲のない人間なんだ。」
「欲のないのは先生の方です。これだけはどうしても受け取ってください。でなければ、われわれは帰りません。」
「金を受け取らなければ帰らない? 面白いことをいう連中だ。よし、ではこうしろ!その金で酒やつまみをたくさん買い込んで、村でドンチャン騒ぎをしろ。」
これには、村人が根負けして、東庵先生の言うとおりにしたとのことです。
そのころ、村では節約一辺倒で村人の気持ちもしずんでいたそうです。東庵先生の言う通り、酒やつまみを買って、酔っぱらってドンチャン騒ぎをして、踊り狂い、長年溜めてきたウサを晴らしたということです。
なぜか東庵の田畑は豊作
不思議なことに東庵先生の家財道具を売って、買った田畑は毎年豊作です。
「どうしてだろ?われわれの田では、こんなにたくさんの米はとれない。東庵先生のすぐそばに田があるのに、なんでこんなに差が出るのだろう?」
この疑問は、そのまま村の庄屋さんのところに持ち込まれたが、庄屋さんは、
「東庵先生の田地には、きっと❝徳❞が潜んでいるに違いない。東庵先生に徳があるように、土地の方にもそれを知っていて、あの土地だけは特別に米がたくさんとれるようになっているのだ。東庵先生の徳は、土地にまで染みわたっているに違いない」
そうしてまた豊作の米を売って儲けた金を東庵先生に届けるも、受け取りを拒否され、
「また、酒でも飲んでドンチャン騒ぎをしなさい」といいました。
押し問答の末、村人たちは、
「では、いったん村に帰って庄屋さんと相談します」
といい立ち去りました。
東庵先生の社を造ろう
困り果てた村人たちは、庄屋さんと相談し、庄屋さんからの提案がありました。
「どうだろう?とね山に東庵先生の社を建てては」
「社を?」
村人はびっくりしましたが、続ける庄屋さんの言葉を聞きました。
「そうだ。東庵先生がやってきたことは、全部❝義❞にもとづいている。そこで先生に❝義斎❞という称号を奉って、義斎神社というのを造ったらどうだろう?」
村人たちはうなずき合った。
「社を造って毎日お参りすれば、われわれの感謝の気持ちが少しでも先生に伝わる。どうだ?」
「たいへんけっこうなお考えだと思います。」
みんなが賛同。とね山の近くに小さな神社を造りはじめた。
そのことは東庵先生の耳にも入り、
「あなたたちは、何をやってるんだ?」
と村人に尋ねました。
「先生のお宮を造っているんです。」
「神様でもないわたしのお宮とは・・・。」
「いままで先生にご恩になったわれわれが、せんせいのことをいつまでも忘れないために、こうしておまつりをするのです。毎日参拝にまいります。そうすれば、先生がどこにいてもわれわれの気持ちが先生に通じるのではないかと思います。」
「あなたたちの気持ちはいつも通じている。岡村の人々ほど、心の温かい人はいない。今の世では珍しいくらいに。」
「庄屋さんから、先生が今までになさったことはすべて❝義❞にもとづいているのだからわたしたちは先生を❝義斎❞先生とあがめなくてはいけない、ですから、このお宮の名前は「義斎神社」と名づけます。」
「やめてくれ。そんなバカなことをされたら、照れくさいではないか」
「照れくさいのはがまんしてください。これは先生がお金を受け取らないのが悪いのですからね。」
「金を受け取らないからといって、社を建てるなんざ、バカげたことだ。わたしは神ではない。欲ボケのドロドロしたただの変人だ。みっともないからやめてくれ。」
「いいえ、やめません」
またまた、押し問答があったものの、今度は東庵先生が折れるしかなくなりました。
❝徳❞は奉仕の精神
さらに、このような問答がありました。
「先生の田畑には不思議な❝徳❞があります。われわれが持っている土地とは違い、先生の土地だけはお米がたくさんとれるのです。先生の徳はまさにすばらしいですね。」
「それは、違うぞ。自然の土地にはどこも徳がある。それを人間が掘り起こし努力するから、収穫物が得られる。わたしの土地だから米がたくさんとれるというのは、あなたたちが持っている徳がものをいうのだ。」
「どういうことですか?」
「あなたたちの徳というのは、自分の土地を耕すときと、わたしの土地を耕すときとは、心の持ち方が違うということだ。
自分たちの土地には、慣れもあってふつうに耕すだろうが、わたしの土地を耕すときは、これは東庵の土地だからと、いっそう丁寧に耕さねばならぬと思う。
それはつまり、自分の土地を耕すときとは、ひと味違った心がけになる。
その心がけこそが他人への奉仕の精神だ。その気持ちがみんなにあるから、それを見ていた天が、田に潜んでる徳をより以上に発揮させるように仕向けるのだ。全部、あなたたちの努力なんだ。」
これに心を打たれた村人は、自分たちの土地でも奉仕の精神で田畑を耕すよう労働意欲が湧いたとのことです。
再び逃げ出した東庵先生
さて、話は戻り、社を造っている最中のころ、
「わたしをまつる社など、本当にやめてくれ」
と東庵先生が、いくらいっても村人たちは聞きませんでした。
「先生の話を聞けば聞くほど、わたしたちは先生を敬いたくて仕方ないんです。どうか社を建てさせてください。社があれば先生と毎日お目にかかれなくても、わたしどもの心の支えになります。反対しないでください。」
「わかった。勝手にしなさい。」
村人たちは、東庵先生の許しが出たと喜び、いままでにも増して社造りに励みました。
社が完成し、東庵先生にも見ていただこうと、先生を招きに出向くと、先生の姿はありませんでした。
机の上には書置きが、
「さようなら。家財道具は売り払って、社の前で、ドンチャン騒ぎをしてください。東庵」
村人たちはたいそうガッカリし、同時に先生に悪いことをしたという罪の意識がわき上がりました。
そこで、できあがった社を壊そうか・・・という話にまでなりましたが、村人のひとりが、
「あの社を壊したら、わたしたちはまたバラバラになります。」
「今までだって、東庵先生に毎日お目にかかることはできませんでした。でも、みんなの心の中には東庵先生が存在していて、❝こういうときには、東庵先生ならどうなさるだろう❞と考えることが心の支えになっていました。社は、そういうわたしたち全員の心のよりどころとして造ったものです。東庵先生がいないからといって、社を壊すのは反対です。」
他の村人たちも、その考えに同意し、社を残すことにしました。
自分の土地も大切に耕す
義斎神社は、岡村の人々の日々絶やさない信仰の的になりました。
岡村の人々は、東庵先生の残した言葉である、
「みなさん一人ひとりがもっている徳で、田に潜んでいる徳を掘り起こすのだ。」
という勇気づけの言葉をそのまま命の灯りにしました。
春夏秋冬の四季には、辛いことがたくさんあり、気持ちがくじけそうになります。
しかし岡村の村人はみな、そのたびに東庵先生のことを思い出し、力強くクワを振って自分たちの土地を耕しました。
東庵先生の言葉を借りれば、
「自分たちがバラバラに田を耕していると、東庵先生と自分らの土地とで、区別する。東庵先生の土地だから努力しなけりゃいけないというのは間違いで、東庵先生の土地と同じように自分らの土地にも及ぼすべき。それが一人ひとりがもっている徳で、田に潜んでいる徳を掘り起こすことになる」
ということであります。
岡村の人々は、辛いときや困ったときは、社の方を向いて、
「東庵先生、こういうときは、どうなさいますか?」
と尋ねました。すると不思議なことに、そのたびに社から東庵先生が、
「そこはこうしたほうがいいよ」
「そんな苦しみはバカバカしいから忘れなさい」
と笑顔で答えてくれたそうです。
「社には、いつも東庵先生がおいでになる。そしてわたしたちの生き方を見守ってくださる」
そのような確かな思いが村人たちの胸にはっきりと根付くことになりました。
東庵先生の二つの悟り
東庵先生が、どこかへと逃げてしまっても、村人たちは、淋しくありませんでした。
というのも、社にはいつも東庵先生がいて
「何をやってるんだ?」
とか
「そんなことをしてはダメだ」
と、自分たちに向けて言ってくれている気がしたからです。
実りの秋には、社の前で盛大にお祭りが催され、村人たちは、賑やかに振る舞い、東庵先生といっしょに楽しみました。
けど、本当にここに東庵先生がいてくれたらと淋しい気持ちがかくせないでもいました。
「もし、ほんとうに東庵先生がここにおいでになったら」
そんな気持ちが村人たちの心の中にあったのです。
村人たちは、東庵先生がいない家の保管もきちんとやっていました。
家財道具もそのままに、いつか東庵先生が帰ってきてくれることを願ってのことです。
そうして時が過ぎたある日、村人が東庵先生の家に行ってみると、東庵先生の姿がそこにありました。
びっくりした村人は、村中に「東庵先生が、お帰りになった!」と言って回りました。
みんなが東庵先生の家に駆けつけると、東庵先生は、
「よう、しばらくだった。留守中、この家や田を保存してくれてほんとうにありがとう。おかげでまたここで暮らせる。」
と、うれしそうに言いました。続けて、
「わたしの社はどうした?」との問いに村人は、
「あのままです。毎日きれいに掃除をして、わたしたち村人が全員おまいりをしています」
「まだそんなことをしているのか。いつまでも、わたしに照れくさい思いをさせる人たちだ」
と言いながらも昔ほど反対するようなことはしませんでした。さらに、
「他の村で聞いたが、ずいぶん豊かになったそうですね?」
「先生のおかげです」
「いや、そんなことはない。あなたたちの努力が実ったのだ」
「わたしどもは先生が残していかれた言葉、❝あなたたちの徳で田畑の徳を掘り起こさなければいけない❞というお言葉を、そのまま守り抜いただけです」
「それが尊い。その話を聞いてわたしはこの村に帰ってくる気になったのだ。つまり、義斎というのはわたしのことではない、あなたたちのことだと気づいたからだ」
村人は、「ハァ?」と、東庵先生の言葉の意味がわからずにいました。
東庵先生は、
「わたしの社だと聞いた時、照れくさくて家を捨て逃げた。あちこち行くうちに、悟ったことが二つある。
その一つは、❝わたしは朝生まれたら、夕に死ぬのだ❞という考えを持たなければならない。
そうしなければ、人間は一日一日を大事にして生きられない。明日があり、来年があると思うとどうしても気が緩む。
わたし自身がそうだった。
わたし自身、この家に住まわせてもらっていた時は、今日一日しか命がないとは決して思わなかった。
明日も生き、来年も生きるというような安穏な気持ちを持っていた。つまり、緊張感が足りなかったのだ」
朝生まれたから、夕に死ぬ
東庵先生は続けて、
「一期一会(いちごいちえ)という言葉がある。一期というのは人の一生をいい、一会というのはその一生で一度しか会えない大切な人、という意味だときいた。
しかし、文字通りそんな解釈をする必要はない。毎日、顔を合わせている家族、地域の人々に対しても、その考えを持つことが大事だという。
どんなに親しい人でも、その日初めて会ったときに、その人とは生まれて初めて会った、また別れを告げるときは、もうこれで二度と会えないかもしれない、そう思うなら、人と人の交流がもっと緊張し、何か相手から学ぼうという気持ちがわいてくる、それがほんとうの一期一会だという。
そうなると、言葉を換えればこの一期一会は、人間は朝生まれて夕に一度死ぬということだろう。
そういう気構えで生きれば、わたしたちは、いつも新しい人間に出会っていることになる。同時にまた、わたしたち自身も新しい人間に生まれ変わっているということになる。
新しい人間同士がつき合えば、かならず新しい何かがうまれてくる」
東庵先生は、岡村を出てからあちこちを随分と放浪しましたが、行く先々で歓迎されました。
はじめは、「妙な男が来た」と警戒していた地域の人たちも、東庵先生に接すれば接するほどその人柄のよさがわかって、すぐに親しみました。
行った先々では、岡村での経験をもとに、その地域の人に話すと、人々は喜び「東庵先生、東庵先生」と慕いよってきて、いろんな相談事に乗っていたそうです。
村人たちは、東庵先生の回答から何ともいえない人間的な温か味を感じ、
「どうかいつまでもこの村にいてください。われわれの助言者になってください」と頼みました。
けど、この言葉で東庵先生は、「はたして自分はこの地域の人々の期待に応えているのだろうか?」という疑問に襲われました。
たしかに役立つように答えてはいるものの心の一角にポツンと穴が開いていたそうです。というのも東庵先生の心の中には、いつも岡村の人々の存在があり、岡村の人々の顔を一人ひとり思い出すたびに「もう一度会いたいなあ」という思いが募ってきたそうです。
岡村の人々にもう一度会いたいという思いとともにもう一つ別なことに気がつきました。それは、岡村の人たちが東庵を社にまつったことです。
まつられたのは村人自身
岡村に帰る前のことを思い出していた東庵先生は、
「放浪しているときに、気がついたことが一つある。それは、わたしがいてもたってもいられないほどあなたたちに会いたいと思ったのは、あなたたちが無類の人柄のよさをもっているからだ。いってみれば、ホトケのような人間ばかりだ」
その言葉に村人はおどろきました。東庵先生は続けて、
「だから、あなたたちがわたしをまつるときいて逃げ出したが、よく考えてみればまつられたのはわたしではない。
まつられたのはあなたたちだ。つまり、あなたたちが自分のもっている徳で、わたしの土地を耕し、多くの収穫物を得てくれたということは、あなたたちが❝義❞を実践していたということだ。
異郷にあってわたしはこのことをしみじみと考えた。そしていままで自分自身が思い上がっていたことを知った」
村人たちは、「それは違う。先生ほど謙虚で慎み深い人はいない」と反論をしましたが、東庵先生は続けます。
「異郷でわたしは自分の非を悟った。あの社にまつられたのは、わたしではなくあなたたち村人全員だ。そう思うと逆に社を守るべきは、わたし自身なのだ。
今度戻ってきたのは、あの社の番人をするためだ。歳を取り何もできなくなったわたしができるのは、あなたたちがまつられているあの社の掃除したり、建物の傷んだところを修理したりするぐらいのことをさせてもらえれば、最後の生きがいが感じられる。
食うものは、社に供えらえた餅でも食うから、心配しなくてもいい。
だから、あなたたちもそういうことを考えて、餅だけでなくたまには酒も供えてくれ」
その言葉に村人たちは大笑い。
東庵先生が戻ってきてくれたことをすなおに喜んだのです。
死んでも死なない人間
東庵先生は、昔どおりの無欲な生活にもどり、ときどき社にやって来ては、掃除したり傷んだところを修理したりしました。
言葉どおり、村人が供えた食べものや酒を飲み、村人たちに困ったことができると相談に乗っていました。
もう、東庵先生の心に空いた部分はなく、岡村の人々のことで充満していました。
そんな毎日でしたが、1786年12月10日に東庵先生は亡くなりました。69歳でした。
もちろん村人たちは悲しみましたが、東庵先生の言葉が胸にあります。
「人間は死んでも死なないよ。生きている人の胸にあるかぎり、その人は依然として生きているのだよ」
村人たちは、
「東庵先生は、死んだのではない。またどこかへいかれたのだ。今度は帰ってこないかもしれないが、社がある限り、東庵先生はいつもわたしたちのそばにいらっしゃる。困ったときには、かならずいい知恵を授けてくださる」
と信じ、東庵先生の土地は最後まで東庵先生の土地として村人の支えになりました。



大阪府豊中市の正安寺に東庵先生の碑があります。ぜひ機会があったら、行って手を合わせたいと思いました。
『江戸 人遣い達人伝』からの学び
園井東庵の一連のエピソードです。
童門先生の文章より簡略化してしまいましたが、「このような人がいるんだなあ」と感動してしまいました。
聖人とはこのような人のことをいうのでしょうね。
なかなか、人の信用を得るのは難しいですが、「無償の愛」を与え続ければ、どのような相手でも心ひらいてくれるのかなと思います。
最近、ギバー(与える人)が最終的に成功をおさめるという自己啓発書が話題ですが、「徳を積む」という点において昔からそうなんだと思いなおしました。
やはり、何といっても心がきれいな人の周りには、人が集まるんですよね。
そのことを教訓にしなければいけないと学びました。
『江戸 人遣い達人伝』の感想・まとめ
今回、「治療費を取らない医者 園井東庵」を取り上げましたが、本書では、この他にも、「武田信繁、豊臣秀長に仕えた藤堂高虎」、「名奉行とうたわれた大岡忠相」、「悪名高いといわれながらも評価がわかれる田沼意次」など、読み応えのある話が満載です。
それほど江戸時代が、多種多様の優れた人材がいらっしゃったということですね。
先人たちの知恵と苦労を知るには最適の一冊です。
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