
こんにちはコウカワシンです。
今回は渋沢栄一著『論語と算盤』から学ばせていただきました。
2024年から導入の新一万円札の「顔」、2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公である渋沢栄一氏。
明治維新後の近代日本を作った人であります。
渋沢栄一氏の『論語と算盤』の考えは現代でもいろんな分野で活用されています。
『論語と算盤』から学ぶこと
『論語と算盤』の目次
第1章 処世と信条
第2章 立志と学問
第3章 常識と習慣
第4章 仁義と富貴
第5章 理想と迷信
第6章 人格と修養
第7章 算盤と権利
第8章 実業と士道
第9章 教育と情誼
第10章 成敗と運命
第1章 処世と信条
第1章では渋沢氏の思想を中心とした「自身の身の置き方」や「考え」を書き綴られています。
特に心に残る事柄を抜き出してみました。
「論語」とソロバンははなはだ遠くて近いもの
実業とは、多くの人に、モノが行きわたるようにするなりわいなのだ。これが完全でないと国の富は形にならない。国の富をなす根源は何かといえば、、社会の基本的な道徳を基盤とした正しい素性の富なのだ。
士魂商才
人の世の中で自立していくためには武士のような精神が必要であることはいうまでもない。しかし武士のような精神ばかりに偏って「商才」がなければ、経済の上からも自滅を招くようになる。だから「士魂」とともに「商才」がなければならない。
蟹穴主義
「蟹は、甲羅に似せて穴を掘る」という主義で、「渋沢の身の丈」を守るということを心がけている。
「論語」を主体とした人間の規律をもって、経済活動に勤しむという極めて大事な心構えを説かれています。
人は生きていく上で「経済活動」を無視するわけにはいきません。
しかし、道徳・規律のない「経済活動」なんて「人の道にあらず」ということなのでしょうね。
そして「身の丈に合った」暮らしぶりを推奨されています。それは「身分不相応」によって生活のバランスを失ってはいけないという戒めでもあります。
全てにおいて節度を持つという現代にも通じる大事な考えに感じました。
第2章 立志と学問
第2章では「志」をテーマに自分の出処進退について語られています。
その「志」についても「自分の生きる道をどうするか?」という問いを常にたくさんされていたことでしょう。
けど、そのような「意志」、「行動」がなければ他人が敷いたレールをただ進むだけの人生になります。
自ら箸をとれ
かの木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、賤しい身分から身を起こして、関白という大きなご馳走を食べた。けれども彼は、主人の織田信長に養ってもらったのではない。自分で箸を取って食べたのである。「何かひとつ仕事をしてやろう」とする者は、自分で箸を取らなければダメなのだ。
大きな志と小さな志との調和
志を立てる要は、よくおのれを知り、身の程を考え、それに応じてふさわしい方針を決定する以外にないのである。誰もがその塩梅を計って進むように心がけるならば、人生の行路において、問題の起こるはずは万に一つもないと信じている。
一生涯に歩むべき道
白状してしまうと、わたしの志は、青年期においてはしばしばゆれ動いた。最後に実業界で身を立てようと志したのが、ようやく明治四、五(1871~72)年のことで、今日より思い起こせば、このときがわたしにとっての本当の「立志」-志を立てることであったと思う。
「志」と一言で言いますが、人生は「志」通りには行かないもの。
渋沢氏も幾たびの路線変更を余儀なくされています。
論語でも「吾、十有五(じゅうゆうご)にして学に志す。(私は十五歳で学問に志した)三十にして立つ。(三十歳で独立した)四十にして惑わず。(四十歳で迷わなくなった)五十にして天命を知る。(五十歳で天命を知った)」というように人の一生は長い年月をかけて形成されます。
その長い年月の中で「志」というものは形を変えながら育っていくものであると思います。
第3章 常識と習慣
第3章では日常、守るべき常識の定義、心構えなどを説かれています。
みんなが同じ常識を持つことで民度の向上が図られ、良い習慣となります。
常識とはどのようなものなのか
「智(知恵)、情(情愛)、意(意志)」の三つがそれぞれバランスを保って、均等に成長したものが完全な常識であろうと考える。
さらに言葉を換えるなら、ごく一般的な人情に通じて、世間の考え方を理解し、物事をうまく処理できる能力が、常識に他ならない。
人生は努力にある
年老いてからや、逆に青年のうちでも、勉強の心を失ってしまえばその人は進歩や成長がおぼつかなくなる。と同時に、そんな勉強をしない国民によって支えられる国家は、繁栄も発達もやはりできなくなる。
常識というものはどのような地位にいても社会で生きていく上で必要です。
そして良い習慣というのは老いも若きも守らなければいけません。
人間生まれてから死ぬまで「学ぶ」から逃げることはできません。
孔子の弟子、子路が「人々がいて、郷土のお社があるような環境あれば、現実から十分に学ぶことができます。
どうして書物を読むことだけが、学ぶといえるのでしょう。」があります。
それに対し孔子は「なるほど口ばかりの奴は嫌いだよ」と答えます。
意味は「本を読むだけが学問ではない、普段の行いが大事であり学問なのだ」ということです。
2000年以上も前の言葉ですが心に沁みますね。
第4章 仁義と富貴
第4章は本書のキモになる部分が書かれています。
中国が宋の時代に社会正義の「道徳」(利益を追い求めれば、国は危うくなる)ばかりに走って国を滅ぼしてしまいました。
また違う時代において利益追求(他人のことなどどうでもよい、自分の利益になればよい)ばかりを求め国が混乱するという事態に見舞われるという事実。
渋沢氏は「利益を得ようとすることと、社会正義のための道徳にのっとるということは、両者バランスよく並び立ってこそ、初めて国家も健全に成長するようになる。
個人もよい塩梅で、富を築いていくのである。」と説いています。
「経済活動」と「富と地位」を孔子はどう考えていたか?
孔子がいいたかったことは、「道理をともなった富や地位でないなら、まだ貧賤(ひんせん)でいる方がましだ。しかし、もし正しい道理を踏んで富や地位を手にしたのなら、何の問題もない」という意味なのだ。(「孔子は富と地位を嫌っていた」という解釈に対して反論)
貧しさを防ぐために真っ先に必要なもの
「高い道徳を持った人間は、自分が立ちたいと思ったら、まず他人を立たせてやり、自分が手に入れたいと思ったら、まず人に得をさせてやる」という『論語』の言葉のように、自分を愛する気持ちが強いなら、その分、社会もまた同じくらい愛していかなければならない。世の富豪は、まずこのような観点に注目すべきなのだ。
よく集めて、よく使おう
お金は社会をあらわすための大切な道具である。お金を大切にするのはもちろん正しいことだが、必要な場合にうまく使っていくのも、それに劣らずよいことなのだ。よく集めて、よく使い、社会を活発にして、経済活動の成長をうながすことを、心ある人はぜひとも心がけて欲しい。
日本は世界から「最も成功した社会主義国」と言われています。
もちろん日本は資本主義国ですし、戦後の高度成長期に社会保障が整備され「国民の生きる権利」がないがしろにされない事実は、間違いないのですが、そのような思想は渋沢氏が提唱したからだと考えます。
第5章 理想と迷信
第5章では国民一人一人に語り掛けるように「国家の一員としての理想」を説いています。
熱い真心が必要だ
孔子の言葉にも、「理解することは、愛好することの深さには及ばない。愛好することは、楽しむ境地の深さに及ばない」とある。
これは「趣味」の極致といってよいだろう。自分の務めに対しては、この熱い真心がなくてはならないのだ。
道徳は進化すべきか
そもそも道徳という字は、中国古代の伝説上の時代の「王者の道」という意味が語源になっている。それくらい道徳の起源は古いものなのだ。
「古いものは自然に進化するべきだ」というダーウィンの説に従って、これを考えてみたとする。進化という現象が生物だけに限らないとすれば、科学の発明や生物が進化していくのに従って、おいおい起源の古い道徳も進化していってもよいのではないだろうか。
一日を新たな気持ちで
「殷王朝を創始した湯王(とうおう)は、自分の顔を洗うタライに『一日を新たな気持ちで、日々を新たな気持ちで、また一日を新たな気持ちで』と刻んでいた」
何でもない教えなのだが、確かに、毎日新たな気持ちでいるのは面白い。
その一方で、すべてが形式的になってしまうと、精神が先細りしていく。
何についても「一日を新たな気持ちで」という心掛けが肝心なのだ。
本当の「文明」
本当の「文明」とは、すべての枠組みがきちんと備わり、そのうえで一般国民の人格と知恵、能力が揃うことで、初めていえることなのだ。
国民一人一人が日々、「新たな気持ちで生き生きと過ごすには」という理想。
その理想と考えは時代とともに進化すると説いています。
それには何気ないことにも意識を持つ必要があるのではないでしょうか。
第6章 人格と修養
第6章では渋沢氏の考える“人格と修養”についての説明があります。
その根底にあるのは「仁」(物事を健やかに育む)という最高の道徳を身につけるためです。
自分を磨くのは理屈ではない
「修養」自分を磨くことは、どこまで続ければよいかというと、これは際限がない。
ただし、この時に気をつけなければならないのは、頭でっかちになってしまうことだ。自分を磨くということは理屈ではなく、実際に行うべきこと。
だから、どこまでも現実と密接な関係を保って進まなくてはならない。
自分を磨くことに対しての誤解に反論する
自分を磨くというのは、自分の心を耕し、成長させることだ。
言葉でいえば「練習」「研究」「克己」「忍耐」といった熟語の内容をすべて含み、理想の人物や、立派な人間に近づけるよう少しずつ努力することを意味している。
だから、自分を磨いたからといって「自分らしさ」が損なわれてしまうようなことはない。人が自分磨きに本当に努力したならば、一日一日とあやまちを直して、よい方向に進んで、理想の人物に近づいていけるのである。
実際に効果のある人格の養成法
人格を磨くための方法や工夫は色々とある。仏教に信仰を求めるのもいいだろうし、キリスト教から信念を汲みだすのも一つの方法だろう。この点わたしは、青年時代から儒教に志してきた。その始祖にあたる孔子や孟子といった思想家はわたしにとって生涯の師である。だから、彼らのとなえた、
「忠」(良心的であること)
「信」(信頼されること)
「孝弟」(親や年長者をうやまうこと)
などを重視するのは、とても権威のある人格の養成法だと信じている。
その他に二宮尊徳氏が相馬藩に施した『興国安民法』の存続について西郷隆盛氏と話し合うシーンがあります。
国の高官だった西郷氏が下級官僚だった渋沢氏に教えを請い、説得にも応じた真摯さ。
知らないことは知らないと素直にいって、まったく飾り気のない西郷氏の人物像に心から尊敬されたということです。
渋沢氏は西郷氏の中に「忠」「信」「孝弟」を見ていたに違いないと推測します。
第7章 算盤と権利
第7章では「仁」と「善意の競争」についての論語の考え方を説いています。
仁を実践するにあたっては、自分の師匠にも遠慮しない
「師匠は尊敬すべき人だが、仁に対してはその師匠にすら譲らなくてもよい」
といった内容のなかには、権利思想がみなぎっているではないか。ただその一句だけではなく、広く『論語』の各章を訪ねていけば、これに類した言葉はなおたくさん見出すことができるのである。
競争の善意と悪意
どんな仕事にもかかわらず、商売には絶えざる自己開発が必要なのだ。また、気配りも続けなければならない。進歩はあくまでしていかなければならないが、それと同時に悪意の競争をしてはならないことを、強く心に留めておかなければいけない。
何事も「仁」にそって人との関わり方、つまり「思いやりの心」をもつ世の中になること。
資本家も労働者も「思いやりの心」をもってこそ本当の調和が実現できると説かれています。
「権利と義務」といった考え方は無意味に両者の感情にミゾを作るからです。
第8章 実業と士道
第8章では士道(武士道)を根っこにした実業精神について語られています。
武士道とは実業道だ
武士道の最も重要な部分とは、次のようなよき習わしを足していったものに外ならない。
「正義(せいぎ)」(みなが認めた正しさ)
「廉直(れんちょく)」(心がきれいでまっすぐなこと)
「義侠(ぎきょう)」(弱気を助ける心意気)
「敢為(かんい)」(困難に負けない意志)
「礼譲(れいじょう)」(礼儀と譲り合い)
「賢者は、貧賤な境遇にいても、自分の道を曲げない」という孔子の教えは、まるで武士が、戦場において敵に後ろを見せない覚悟を決めるのとそっくりだといってよい。
もし社会で身を立てようと志すなら、どんな職業においても、身分など気にせずに、最後まで自力を貫いて、人としての道から少しも背かないように気持ちを集中させることだ。
この章では「利益を追求する学問のマイナス面をなくしていくべきだ」ということが書かれています。
もともと論語の学習において「金儲けは悪だ」と誤った解釈がなされていたのを渋沢氏が「いやいや、そうじゃないんだ」と訂正されています。
「武士道の心で商売をする」
そこには悪意ある経済活動はなされないわけで、健全な経済活動をする上での大事な基本であるといえるでしょうね。
第9章 教育と情誼
第9章では学ぶ上での師と師弟の関係に対しての心構えについて説かれています。
現代教育の得たもの、失ったもの
青年はよい師匠に接して、自分を磨いていかなければならない。昔の学問と今の学問とを比較してみると、昔は心の学問ばかりだった。一方、今は知識を身につけることばかりに力を注いでいる。また、昔は読む本がどれも「自分の心を磨くこと」を説いていた。だから、自然とこれを実践するようになったのである。さらに自分を磨いたら、家族をまとめ、国をまとめ、天下を安定させる役割を担うという、人の踏むべき道の意味を教えたものだった。
偉人とその母
多くの場合、善良な女性からは善良な子供が生まれ、優れた婦人の教育によって優秀な人材ができるものである。そうだとするなら、女性を教育してその知恵や能力を花開かせ、女性としての道徳を育んでいくのは、教育された女性本人ばかりでなく、間接的には善良な国民を育てるもとになるのだ。だから、女性教育はけっしていい加減にできない。
明治維新以後から現代につながる教育の在り方について語られてます。
昔は有名な先生の門人になろうと思ったら何日も門前に座り、許しを得ないとなれなかったそうです。しかし一度、師弟の関係になったなら、門人は師を敬い、師も愛情をもって門人に教える。その教えも「心」を大事にしているから精神的な成長をうながし、やがて世の役に立とうとする。
今はというと、知識を詰め込むだけの学問で「心」の鍛錬まではできていない。
教師に対しても尊敬してるとまではいえず、教師に対して「評価」をすると嘆かれてます。
現代を生きる私もはっきりいって耳の痛い話でした。
そして女性教育の先見性も唱えられていました。
国の「民度」「文化レベル」は国民に対する就学人口の多さが大いに関係します。教育に重きを置かない国は衰退します。
第10章 成敗と運命
第10章は個人としての日々を過ごすうえでの心構えです。
自分ができることをすべてしたうえで、運命を待て
天から下される運命とは、人間がこれを意識しようがしまいが、四季が自然にめぐっていくようにすべての物事に降り注いでいることを、まず人は悟らなければならない。そのうえで、この運命に対して、
「恭」(礼儀正しくする)
「敬」(うやまう)
「信」(信頼する)
という三つの態度で臨むべきなのだ。そう信じていれば
「人事を尽くして天命を待つ」(自分にできることをすべてしたうえで、天からくだされる運命を待つ)
という言葉に含まれる本当の意義が、初めて完全に理解されるようになると思う。
細心にして大胆であれ
軽はずみな行動は、どんな場合でも慎むべきだが、あまりにリスクばかり気にすると決断がつかなくなり、硬直しきって、弱気一辺倒に流れがちになる。その結果、進歩や発展を邪魔する傾向が生まれてしまう。個人においても、国家の前途に関しても、これは憂うべき事態といわなければならない。
成功と失敗は、自分の身体に残ったカス
とにかく人は、誠実にひたすら努力し、自分の運命を開いていくがよい。もしそれで失敗したら、「自分の智力が及ばなかったため」とあきらめることだ。逆に成功したなら「知恵がうまく活かせた」と思えばよい。成功したにしろ、失敗したにしろ、お天道さまからくだされた運命にまかせていればよいのだ。
こうして、たとえ失敗してもあくまで勉強を続けていけば、いつかはまた、幸運にめぐまれるときがくる。
渋沢氏の厳しいけど優しい言葉の数々が心を打ちます。私の好きな言葉に「人事を尽くして天命を待つ」があります。運命に対しての決意がさらに深まった気がしました。
『論語と算盤』の感想
とにかく重厚な本でした。
江戸から明治にかけての日本を作った立役者は「何が必要で、何が不要か」がハッキリしていた方だと思います。
そして、「自分が何をすべきか?」にも言及され、現代に生きる私たちにも確かな道しるべとなって「筋」を教えてくださってます。
2000年以上も前の「論語」の教えが日本で学びの書として今日まで大事にされている意味もとてもわかりました。
私の出身高校の校訓が「士魂商才」。
在学当時はあまり意味がわかっていませんでしたが、この歳になったからでしょうか、武士道精神を持ち日常を過ごすことの尊さを教わった気がします。
また新たな気持ちで一日を精一杯頑張ろうと思います。
まとめ
『論語と算盤』は「利潤と道徳を調和させる」という、経済人がなすべき道を示した書であり、すべての日本人が帰るべき原点でもあると思います。
明治期に資本主義の本質を見抜き、約470社ほどの会社設立を成功させた渋沢氏の言葉は、指針の失われた現代にこそ必要で、そのせいか、愛読する人がたくさんいます。
経営、労働、人材育成の核心をつく経営哲学は色あせず、未来を生きる知恵に満ちています。
ぜひ会社やグループ、家族間で、でも話題にし、みんなでその考えを共有していただきたい一冊です。
読みやすい漫画版もあります。
『論語と算盤』を聴こう!
「聴く読書」ってご存知な方もいらっしゃいますよね。
1日何時間も存在する「耳のスキマ時間」が読書時間に変わります。
音楽を聴くように気軽に人気のビジネス書を楽しめます。語学や資格試験の勉強にも最適です。
文芸作品は、朗読からドラマ形式の作品まで、幅広い形式で楽しめる人気のジャンルとなっています。
『論語と算盤』はaudiobook.jpで聴くことができます。」
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