
こんにちはコウカワシンです。
今回は『嫌われる勇気』シリーズ第二弾の『幸せになる勇気』から学んでみたいと思います。
前作『嫌われる勇気』で「アドラー心理学」について語り明かした哲人と青年。3年ぶりに、また哲人を訪ねて青年がやってきました。3年前に「アドラー心理学」を学び、それを実践しようと教師になった彼に圧し掛かった問題、それは「アドラーを捨てるべきか否か」という選択を選ばざるをえないまでに彼の中で大きくなりました。
教師という立場上、生徒たちとの関りに「アドラー心理学」を適用しようと奮闘しましたが現実にはかなわず意気消沈。
アドラー心理学は実際には使えない、机上の空論だとする彼に、「貴方はアドラーを誤解している」と哲人は答えます。
アドラーの唱える「誰もが幸せに生きるためにすべき「人生最大の選択」とは何なのでしょうか?





また白熱した哲学問答が始まる予感がしますね。
『幸せになる勇気』から学ぶこと
『幸せになる勇気』の目次
- 悪いあの人、かわいそうなわたしか、
- なぜ「賞罰」を否定するのか
- 競争原理から協力原理へ
- 与えよ、さらば与えられん
- 愛する人生を選べ
前提として学校を民主主義国家に例えると主権者は「生徒」であり、教師は主権者ではないということです。
教師はあくまでも教育者であり「カウンセラー」であるべきと考えます。
この生徒に主権があり「自立」を促すところに本書の目的があります。
①悪いあの人、かわいそうなわたしか、
「尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである」
反抗する生徒に手を焼く青年に哲人は「まずは「あなた」が子どもたちに対して尊敬の念を持つ。」と言います。
役割として「教える側」に立っている人間が、「教えられる側」に立つ人間のことを敬う。
これには意味があって、尊敬なきところに良好な対人関係は生まれず、良好な関係なくしてはどんな言葉も届かないからです。
つまり、「尊敬」とは関心を持つことなんですよね。自分に関心を持ってくれない相手に心を開く人はいないということなんです。
さらに
「尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである」
目の前の他者を変えようとするでもなく操作しようともしない。何かの条件をつけるのではなく、「ありのままのその人」を認めるのが尊敬なのだということです。
「ありのままの自分」を受け入れてもらえた人は大きな勇気も得るし、認めてくれた人に心を開くはずですよね。
では、どのようにして「尊敬」できる関係を築けば良いのでしょうか?
それには「共感」することが大事です。「共感」とは、「他者に寄りそうときの技術であり態度」です。
たとえ、自分には興味のないことでも「もしもわたしがこの人と同じ種類の心と人生を持っていたら?」と考える。まるで、自分のことであるかのようにです。
他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること
それから、過去にあったことに引きずられトラウマではないにしても「いま」一歩が出せない状態においてです。
「いま」が充実していたら過去の苦労は美談となり、「いま」が不幸せと感じるなら過去の出来事は暗黒のものと認識されます。これにも目的論と過去の関係があるのですが、だいたいは・・・自分の「いま」が過去を決めているというのです。
よく友人なんかと「わたしなんかさ~」とか「あの人のせいでさ~」てな感じで「不幸合戦」してませんか?
「悪いあの人」を非難し、「かわいそうなわたし」をアピールする。たぶん誰にでもあるでしょうけど「不幸に彩られた過去」を「悲劇」という美談に近い感覚で酔っているのです。
これはある意味「不幸に彩られた過去」を自らが必要としているということです。
でも悩みのある人はいつまでも悩みの渦中にいたいとは思っていません。大事なのは「これからをどうするか」を考えることです。
①悪いあの人、かわいそうなわたしかのポイント
- 「尊敬」とは相手に関心を持つこと
- 「共感」とは、「他者に寄り添うときの技術であり態度」
- 「悪いあの人、かわいそうなわたしか」より「これからどうするか」
②なぜ「賞罰」を否定するのか
教室は民主主義国家である
主権者は「生徒」。教師は主権者ではない。でなければ「独裁」国家になってしまう。独裁者は「賞罰」で組織をまとめようとする。
まず「賞罰」とは何でしょう?
「いいこと」したらほめられて、「悪いこと」したら叱られる又は罰を受ける。
そういうことですね。
アドラーでは、「賞罰」を否定しています。
叱ってはいけないし、ほめてもいけない。
「いいこと」「悪いこと」の目的が「賞罰」になるからです。
「いいこと」したことにより充実感を得られる満足ではなく、「褒められる」ことを目的とした満足になるからです。
では、「悪いこと」した場合の叱る、及び罰を与えることの否定ついてです。
まず前提として相手がそれが「悪いこと」だと知らない子供だとします。叱らずにそれは「悪いこと」だよ、と教えてあげることが大事なのです。
人間は誰しも完ぺきではありません。「知らないこと」だらけです。「知らない」という事実をもって厳しく責めるのは理にかないません。
でも「悪いこと」と知っていて問題行動をする人物にはどうすればいいのでしょうか?
問題行動する行為の裏には、もっと深いところに、別の心理が働いていて5段階に分けることができます。
問題行動の目的5段階
- 第1段階「賞賛の要求」(ほめてもらうこと、特権を得ること)
- 第2段階「注意喚起」(ほめられなくてもいいから目立ってやろうとすること)
- 第3段階「権力争い」(「反抗」、「不従順」)
- 第4段階「復讐」(認めれない反動により憎悪という感情の中で自分に注目を集める行為)
- 第5段階「無能の証明」(自分が無能であることをあらゆる手を使い証明する行為)
この問題行動の根底にあるのは「所属感」です。その共同体の中に自分の存在を確保する目的において起こしてしまう行動なのです。
第2段階までなら対処も困難ではないけど、第3段階より対処が難しくなります。それは第3段階より「わたしを憎んでくれ!見捨ててくれ!」的な行動をされるからです。
このこじれた状態はどのようにしたら改善するのでしょうか?
やるべきことは一つで、当事者の「目的」に注目し、彼らと共に「これからをどうするか」を考えることです。「これからをどうするか」の先には「自立」できることが大事となります。
「自立」とは自分の行動に責任を持てること。他者に「依存」したり「無責任」な地位に置かないことが教師を含め、組織の運営を任されたリーダーに求められることです。
②なぜ「賞罰」を否定するのかのポイント
- 「いいこと」「悪いこと」の目的が「賞罰」になるから
- 問題行動の根底にあるのは「所属感」
- 「これからどうするか」の先には「自立」できることが大事
③競争原理から協力原理へ
「ほめて伸ばす」を否定せよ
なぜなら「ほめられる」ことを目的とするとその組織が「褒賞を目指した競争原理」に支配されるからです。
やはり人間は褒められるとうれしいものです。
それを糧に努力するのはいけないことではないけど、「褒められること」が目的ではやがて競争を生み、競争相手は「敵」になります。
それは「縦の関係」を作り「横の関係」を壊します。「価値を得る」ために不正もあるかもしれません。
その時の子供たちの心境とはどのようなものでしょう?
われわれ人間は子ども時代、ひとりの例外なく劣等感を抱えて生きている
とアドラーは言います。
なぜなら、原則として人間は「心の成長に身体の成長が追いつかない生き物」だからです。その結果、心理面での「やりたいこと」と肉体的に「できること」のギャップに悩み苦しむのです。
「自らの不完全さ」を経験する子供たちは、その弱さゆえ共同体を作り、協力関係のなかで生きるべきなのです。協力関係において競争という「敵」を作る行為は避けなければいけません。
そこで注意しなければいけないことがあります。それは共同体の中で「自立」できることです。
「自立」とは「わたしがわたしであることの勇気」を認識することです。「わたし」の価値を、自らが決定することです。
「人と違うこと」価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置く
そのようにすれば他者からの「承認」又は「依存」に影響されない人生を送れることでしょう。
③競争原理から協力原理へのポイント
- 「褒めての伸ばす」を否定する
- 人間は「心の成長に身体の成長が追いつかない」生き物である
- 「自立」とは「わたしがわたしであることの勇気」
④与えよ、さらば与えられん
われわれは働き、協力し、貢献すべきである
人間、生き延びるには働きます。社会で生きるためには協力します。
これは「善悪」を超えた結論なのです。
この地球上、他者との協力関係を結ぶ以外に生存方法はないのです。ですのでこの社会は「分業」という働き方が確立されています。
これを前提として「人を信じる」ことが人生のタスクだとアドラーは説きます。
まず、目の前の人に、信頼を寄せる。目の前の人と、仲間になる。
まず、「目の前の人を「信頼」せよ」という言葉です。自分を信じて欲しいと思うのなら、まずは自らが相手を信じなければ「信頼」の関係を築けません。
そこに、「与えるから、与えられる」という図式が成立します。今風に言えば「GIVER(ギバー)」とでも言うのでしょうね。
私、個人としましても「GIVER(ギバー)」になりたいと日々考えています。
④与えよ、さらば与えられんのポイント
- われわれは働き、協力し、貢献すべきである
- 「人を信じる」ことが人生のタスク
- 「与えるから、与えられる」
⑤愛する人生を選べ
われわれは愛によって「わたし」から解放され、自立を果たし、本当の意味で世界を受け入れる
まず、「愛」=「幸福」と考えます。
「わたしの幸福」を突き詰めていくと「誰かの幸福」につながっていきます。アドラー心理学における「幸福とは貢献感」であるとされるからです。
ひたすら信じ、ひたすら与える利他的な態度によって交友の関係が生まれます。つまり相手がいる場合は「あなたの幸福」が「わたしの幸福」となるわけです。
それはすなわち「わたしたちの幸福」となるのです。
われわれは愛によって「わたし」から解放され、自立を果たし、本当の意味で世界を受け入れる。それが「共同体感覚」である。
「愛」「自立」「共同体感覚」・・・すべてがつながりました。
では「わたしたち」の中身は「わたし」と「誰」でしょうか?
アドラーはこういいます。
われわれはいかなる人をも愛することができる
そうなんです。アドラー心理学では「運命の人」をいっさい認めず、特定の人を運命と感じ愛することは「決意」であり「決断」であり「約束」であると考えます。
「運命」とは、自らの手でつくり上げるものなのです。
⑤愛する人生を選べのポイント
- 「愛」=「幸福」
- 「あなたの幸福」+「わたしの幸福」=「私たちの幸福」
- われわれは愛によって「わたし」から解放され、自立を果たし、本当の意味で世界を受け入れる。
『幸せになる勇気』の感想
なかなかに白熱した議論が一晩で話し合われたと思うと双方・・・相当疲れたのではないか?と思います(笑)
しかし、この青年の物言いはとても目上の人に対して使う言葉ではないと感じるのは私だけではないはず。そこのところがアドラー心理学でいう対峙する相手に対しての「尊敬」なり「愛」、言い方を変えると「礼儀」がなってないなあと感じます。
自分の考えを相手に押し付け、相手の考えさえも変えさせようとする彼は3年前に何を習ったのだろうと思いました。しかし、人間というものは実際「弱い生き物」ですから、ついつい「承認欲求」を求めてしまうんでしょうね。
まだまだ「自立」できてないひとはたくさんいます。
このことから本書ではそのような問題が起こるたび「アドラー心理学」を語り合い更新していく必要があると語っています。
私もこの考えを継承していければと思いました。
まとめ
文学YouTuberベルさんのコメントの中にもありましたが、『嫌われる勇気』が地図、『幸せになる勇気』はコンパス、このような位置づけで、何回も読み返すべき本だと思います。
人間は完ぺきではありません。
メンタルがやられることはたびたび起こると思います。これは仕方がないことですよね。だから度々補正しなければいけないと思います。各年代の方も取り組むべき課題ですよね。
とにもかくにも『嫌われる勇気』読んだからいいや!なんて言わずに一度手に取ってみてください。
『幸せになる勇気』を聴こう!
「聴く読書」ってご存知な方もいらっしゃいますよね。
1日何時間も存在する「耳のスキマ時間」が読書時間に変わります。
音楽を聴くように気軽に人気のビジネス書を楽しめます。語学や資格試験の勉強にも最適です。
文芸作品は、朗読からドラマ形式の作品まで、幅広い形式で楽しめる人気のジャンルとなっています。
『幸せになる勇気』はaudiobook.jpで聴くことができます。
コメント